司馬遼太郎生誕100年の<菜の花忌>(後篇)| 22歳の福田青年とノモンハン事件

22歳のとき、旧陸軍戦車第一連隊の将校だった福田定一さん(のちの司馬遼太郎)は栃木県佐野市終戦を迎えます。司馬さんは生前、自身の作品を「22歳の自分への手紙」だと述懐しています。焦土と化した敗戦国日本の惨状を前にして、福田青年は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう。昔の日本はもっとましだったに違いない」と考え、日本の歴史に目を向け始めます。ここに作家・司馬遼太郎誕生の原点があります。やがて、理想の日本人の姿やあるべき日本という国家のかたちを追求することが、司馬さんのライフワークになっていくのです。司馬さんが理想とした日本人の姿は、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』といった長編の労作に結実していきます。なかでも、民間人を主人公に据えた『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛は司馬さんが考える理想の日本人の代表格だとされています。

司馬さんは、ノモンハン事件(1939年5~9月)をテーマにした長編小説を構想し取材を重ねながら、作品を完成させることはありませんでした。司馬さんが書いた昭和史を読んでみたいと思う愛読者は多いはずです。自分もそのひとりです。書かなかった(或いは書けなかった)理由は、日露戦争以降、国家に責任をもった指導者が現れなかったからに他なりません。

司馬さんはこんな痛烈な言葉を発しています(『司馬遼太郎が語る日本』)未公開講演録IIより)。

「昭和になってからの官僚、軍人で国家に責任を持った者はほとんどいません。愛国、愛国といいながら、結局は自分の出世だけでした」

「昭和史の語り部」として知られる半藤一利さんは、司馬さんの遺影の前で(司馬さんが書かなかったので)僕が勝手に書きますと断った上で、『ノモンハンの夏』を書き上げます。「歴史のなかにもこの世で求めがたいほどに素晴らしい友人がいる。」と語る司馬さんにとって、ノモンハン事件執筆のために厖大な時間を費やし唾棄すべき軍人と対話を重ねなければならないのは、拷問に等しい苦痛でしかなかったのでしょう。願わくば、坂本龍馬河井継之助のような高潔で志ある友人たちともっと対話をしたかったに違いありません。

1996年に享年72で司馬さんがお亡くなりになったあとの21世紀の日本は、司馬さんが考えたような明るい未来に向かって歩んでいるのでしょうか。一等国家への険しい道程から逸れて易しい脇道へ逃げ込んでいるように見えてなりません。<日本史のなかに大事なことはすべてある>と語った司馬さんのメッセージを、今一度反芻してみる必要がありそうです。日本人は、司馬さんの選りすぐりの著作を繰り返し読むことで学び続けるしかありません。

生誕100年目の<菜の花忌>に、こうして司馬さんの足跡を振り返りながら考える時間を持てたことが得難い収穫でした。