白洲次郎 白洲正子の暮らし展@TOBU

東武百貨店池袋店で開催中の特別展「白洲次郎 白洲正子の暮らし展」(〜4月17日まで)に足を運びました。流儀(プリンシプル)を貫いた白洲夫妻の生き方に以前から憧憬の念を抱いていただけに、今回、ムック(末尾掲載本参照)を通じてしか見たことのない数々の遺愛品に触れて、ご夫妻の粋な暮らしぶりに改めて胸を打たれました。西欧列強に開国を迫られた幕末、明治以降において、最高に格好いい日本人カップルといえば白洲夫妻をおいてほかに思い当たりません。公私において和魂洋才を実践するのは決して容易いことではなかったはずです。そんな激動の時代にあって、一流の欧米流教養を身に着けながら、日本人としての誇りや尊ぶべき作法を揺るがせにしないおふたりの生き様には深く共感させられます

終戦の翌年、GHQの指示で憲法改正に着手した日本政府が所謂「松本私案」を提出すると、旧態依然の松本私案は一蹴されて代わりに「マッカーサ草案」が提示されました。吉田茂外相らと共にその場に居合わせた次郎氏は、数日後、ホイットニー准将宛てに私信を送ります。ジーブ・ウェイ・レターとして知られるこの私信が会場に展示されています。注目すべきはレターの下部に描かれた頭蓋骨のような形をしたイラストです。両政府、お互い目指すところは同じだが、君たちは空路(Your Way)を行き、彼らは平たんではない陸路(Their Way)を進むのだと、あくまで中立的な立場から性急な改正に異を唱えたものです。この私信もホイットニー准将に一顧だにされなかったわけですが、占領下にあって大多数の日本人が唯々諾々とGHQに従うなか、次郎氏だけは「従順ならざる唯一の日本人」として主張すべきを主張するのです。ケンブリッジ仕込みの卓越した語学力で道理が通らないことには毅然として反論する一方、1951年のサンフランシスコ講和会議に随行した際、日本人としての矜持から吉田茂首相の英文スピーチさえ日本語に変更させてしまいます。

会場にはおふたりの遺した言葉を刻んだ短冊が交互に掲げられています。「夫婦円満の秘訣はなるべく一緒にいないこと」という夫次郎氏の言葉はなるほどその通りです。

ふたりは正子さんの兄の紹介で知り合います。

Masa : You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon”という正子さんへのラブレターは、次郎氏のポートレートの下に自署されているのですね。「君は私にとって霊感の泉であり究極の理想だ」なんて、ほれぼれするほどいい男だった次郎氏以外の人間が呟いたら笑止の沙汰ではないでしょうか。

外交の表舞台や財界で活躍した次郎氏は、57歳で第一線を風の如く退き、悠々自適の武相荘での暮らしに戻ります。有名な「葬式無用 戒名不用」と記した家族への遺書も初めて実物を見ることができました。1985年(昭和60年)、次郎氏は83歳でこの世を去ります。遺言通り、葬式は行われなかったそうです。


白洲次郎 (コロナ・ブックス)

白洲次郎 (コロナ・ブックス)