「三鷹市吉村昭書斎」を訪ねて|ミクロコスモスとしての書斎

吉祥寺通りと玉川上水が交差するところに萬助橋という名の小さな橋が架かっています。鴛鴦夫婦として知られる吉村昭津村節子夫妻の自宅は、その萬助橋から東へ徒歩数分、井の頭恩賜公園の西エリアに隣接する閑静な住宅街の一角にありました。井の頭恩賜公園の自然が身近に感じられる立地に惚れ込んで購入を決めたそうです。吉村昭(1927-2006)の書斎は、母屋から独立した「離れ」として建設されたものです。生前、夫婦で旅行に出掛けても「早く書斎に戻りたい」と言うほど、氏にとって心安らぐ場所だったといいます。

三鷹市吉村昭書斎」は、元あった場所から京王井の頭線井の頭公園駅にほど近い住宅街に移築され、今年3月9日に開館しました。吉村昭は、現在の荒川区東日暮里の生まれで、空襲で実家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごしています。そのため、荒川区が先行して顕彰事業を行っており、2017年に「吉村昭記念文学館」が開館しています。

「離れ」の書斎を展示の中心に据えた「三鷹市吉村昭書斎」は、全国的に見ても、珍しい文化施設ではないでしょうか。都内であれば、「漱石山房」の書斎を再現した「新宿区立漱石山房記念館」をはじめ、文学館や図書館など文化施設の一隅に書斎コーナーを設けて公開するのが一般的です。

開館から1ヵ月後の4月10日の午後遅い時間に「三鷹市吉村昭書斎」を訪れました。吉村・津村夫妻と生活圏が重なる我が家から徒歩で20分、井の頭線沿線にはまだ桜が残っていました(写真・上)。自治体の文化関連予算(写真・上は令和5年の三鷹市計上予算)は限られていますから、さして期待せずに訪れたのですが、工夫を凝らした施設全体の出来栄えに感心させられました。「交流棟」と「書斎棟」のふたつの建物は、周辺住環境に配慮して隣家との一体感を重視、施設であることを意識させないような造りになっています。向かって左手「交流棟」の外装には表面を焼いて炭化させた「本焼き板」が使われていて、レトロな味わいが「書斎棟」とよく調和しています。「交流棟」に入館すると、背丈より高い大きな曲面ガラスを通して「書斎棟」を眺められます。船底天井のような設えで天井を高くした結果、採光に優れた空間が産まれ、外観と内観のミスマッチが奏功しています。とかく陰気臭くなりがちな文学館ですが、来館者にはいい意味でサブライズだと思います。

「交流棟」の先にある扉を開けていったん外へ出て、時計回りに進み「書斎棟」に入場します。退場はその逆になります。書斎は、幕末の水戸藩尊王攘夷派が組織した「天狗党」による動乱を描いた『天狗争乱』執筆当時の様子を再現しているのだそうです。書架に収まった蔵書のタイトルを眺めているだけでも、徹底して史実を重視した吉村昭の執筆態度が透けて見えてきます。『北海道行刑史』、『日本史籍協会叢書』、『高知県史』などの郷土史がその一例です。幕末・維新期研究に必要不可欠な第一級の基礎史料である『日本史籍協会叢書』のなかの「川路聖謨(かわじとしあきら)」に目が留まりました。川路聖謨は、幕末、ロシア使節プチャーチンと交渉し、日露和親条約の締結に尽力した人格・識見共に優れた勘定奉行です。『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』執筆に際して参照した資料の一部でしょう。維新後、不平等条約の改正に奔走した小村寿太郎を描いた『ポーツマスの旗』と並ぶ二大外交官物として、記憶に残る作品です。

『わたしの取材余話』(河出書房・2010)のなかで、吉村昭は「史実を(忠実に)記して(作者が表面に出て自らの解釈を明確にせず)その判断を読者にゆだねる」立場に身を置いていると記しています。吉村文学、特にノンフィクション性の強い作品(歴史小説)の魅力は、そうした歴史に対する謙虚な姿勢にあるのだと思います。作者・吉村昭は、史実が明らかでない謂わば歴史の空白に対してのみ、珠玉の補助線を求めて合理的思考を重ねます。こうして、完成度の高い作品が生み出されるのです。