没後100年目の鷗外忌

文豪・森鷗外は1922(大正11年)年7月9日午前7時に文京区の自宅で病死します。享年60でした。軍医総監にまで上り詰めた鷗外は、自らの死期を悟り、死の3日前に遺書を口述し親友・賀古鶴所(かこつるど)に筆記させました。自宅「観潮楼」のあった場所(当時:千駄木町21))に文京区立森鷗外記念館があります。鉄筋コンクリート造でありながら、旧居の佇まいを残した居住空間を強く意識させる設計がひときわ異彩を放っています。設計者は陶器二三雄さん。BCS賞をはじめ数々の賞を受賞した記念館建物自体が、一級の建築作品である点を付記しておきます。

没後100年目の鷗外忌に記念館を訪れました。1Fエントランスで和服姿の鷗外さんが出迎えてくれました。展示室は地下にあります。「読み継がれる鷗外」と題した特別展の目玉は、鷗外が口述し加古鶴所が筆受した遺書原本や哀悼寄書です。哀悼寄書には、芥川龍之介鈴木三重吉らの名前もあって、鷗外が大勢の文士に敬愛されていたことが分かります。新海竹太郎作のデスマスクを見て、鷗外さんは意外に小顔なのだと知りました。

順風満帆に見える森鷗外の人生ですが、九州・小倉に不本意な転勤を命じられ、2年10ヶ月にわたり単身赴任生活を送っています。左遷説が有力です。直木賞作家の門井慶喜さんが鷗外忌に朝日新聞で「鷗外は笑える。おもしろい」と評していました。意外感がありますが、思い当たる作品はいくつもあります。小倉時代の自身をモデルにしたと思しき短編『鶏』では、使用人が鶏の卵やお米をちょろまかし翻弄される主人公の姿を軽妙に描いています。使用人に暇を出すかとを思いきや、主人公(鷗外)は使用人が戸惑うような寛大な提案をします。内心の動揺を取り繕ろうと振る舞う鷗外先生の自虐的なところが可愛くてなりません。門井さんが紹介している短編『大発見』もユーモアたっぷりの内容でクスッと笑ってしまいます。

その後の鷗外の創作活動において、軍務の傍ら、フランス語をはじめ複数の外国語を独習したりアンデルセンの『即興詩人』を翻訳したりした小倉の学究生活が大きな意味を持つことになります。エリート人生を歩んだかに見える鷗外の作品群に通底するある種の諦観は、市井の人々と交わったこの時期に形成されたように思えます。

鷗外の全作品を読んだという平野啓一郎をはじめ文化人の作品評を読んで、これまで熱心な鷗外の読み手でなかったことを悔やみました。漱石同様、鷗外が作家として活動した期間はわずか10年です。軍医としてのキャリアに鑑みれば、小説家・森鷗外の偉大さは群を抜いています。子煩悩で散策が好きな鷗外先生は、権力の中枢にあって深く思い悩み、公にできない葛藤を作品世界で吐露しようと努めました。権力に公然とはむかった大塩平八郎を取り上げたのも、大逆事件に刺戟されて自由な思想を弾圧する社会を批判する内容の『沈黙の塔』を著したのも鷗外なりの抵抗だったのでしょう。大逆事件で検察側も弁護団も鷗外に社会主義の講義を求めたことが、鷗外が如何に開明的であったかの証左です。作家の森まゆみさんは、森鷗外を女性にフェアな視点を有した作家だと評し、自立した女性を描いた点を賞賛しています。未だ大勢がジェンダーフリーを理解しない男尊女卑社会・日本(ジェンダーギャップ指数は149ヵ国中116位)にあって、百年以上も前に、鷗外先生が発揮した先見性は異次元の産物としか思えません。

江戸時代に実際に起きた出来事を題材にした『最後の一句』のなかで、死罪を言い渡された父の助命のために長女いちが奉行に言い放った言葉は、鷗外が生涯自問自答していた言葉ではなかったでしょうか。

「お上の事には間違いはございますまいから。」

森鷗外のお墓は禅林寺(三鷹市)にあります。三門をくぐった先の右手に、遺言(下記一部抜粋)どおり中村不折の筆で鷗外先生の遺書を刻んだ石碑があります。一切の栄典や官位を拒絶した石見人・森林太郎の秋霜烈日な態度に心を揺さぶられます。鷗外忌に森鷗外記念館を訪れたことを記憶に深く刻んでおきたいと思います。

(前略)余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス