文京区立森鷗外記念館を訪れて

行こう行こうと思いながら2年以上も経ってしまいましたが、ようやく森鷗外記念館(2012年11月開館)を訪れることができました。記念館の建つこの地(文京区千駄木1-23-24)に、鷗外は1892(明治25)年から亡くなる1922(大正11)年まで過ごしたのだそうです。



文豪ゆかりの地に記念館があるだけでも有難いわけですが、敷地内に旧居「観潮楼」の門柱の礎石や敷石がそのまま残されています。そして、鷗外ゆかりの庭園には、鷗外が暮らした当時からある大イチョウと鷗外が腰掛けたという庭石「三人冗語の石」が残っています。

コンクリートの打ちっぱなしのモダンな建物と植栽も含めた鷗外ゆかりのこうした遺構が見事に調和しています。雨上がりだったせいでしょうか、しっとり濡れた敷石に刻まれた歴史の重みを感じました。大きな門扉をくぐって地下1階にある展示室を見る前に、建物とお庭に惚れ込んでしまいました。建物は第55回BCS賞(2014年)を受賞しています。

建物外観だけではなく展示も誠に秀逸でした。入り口を抜けて先ず目に飛び込んでくるのは、エントランス正面に掲げられた「森鷗外レリーフ」(高田博厚制作)です。広々とした空間を贅沢に使った演出です。地下一階の展示室では写真や動画(さすが軍医総監を務めただけあります)を巧みに配して、時系列に鷗外の足跡を辿れるよう工夫が凝らされています。著作を並べて解説を加えるようなありふれた展示手法をあえて採らなかった点を評価します。高台にあるこの地からは東京湾が望めたといいます。旧居「観潮楼」のミニチュアからは、明治・大正を生きた文豪の豊かな暮らしが窺えます。

とりわけ感心したのは、「観潮楼」に集った小説家や歌人が鷗外に宛てた数々の書簡です。ディスプレイで葉書の裏表を選択して筆跡や内容を確認することができます。上京してまもない時期に石川啄木与謝野鉄幹に誘われて「観潮桜花会」に参加し、鷗外と書簡の遣り取りがあったことを初めて知りました。鷗外の多彩な交友関係を物語る一級資料は必見です。

死の3日前に鷗外の遺書を認めることになった刎頚の友・賀古鶴所(かこつるど)が、同級生にもかかわらず、鷗外より7歳も年上だったことを今回の新収蔵品展で初めて知りました。今度、ボランティアガイドとして鷗外の墓所三鷹禅林寺)を訪れる機会があったら、このあたりの事情も触れておきたいと思います。

功成り名を遂げた森林太郎が残した遺書に改めて文豪森鷗外の真価を見る思いです。永井荷風が『断腸亭日乗』に全文書き写しただけあって、その遺書は朗読したくなるような名文です。長くなりますが、全文転記しておきます。

森鷗外の遺言)

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス 墓ハ 森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス 

大正十一年七月六日
        森 林太郎 言(拇印)
        賀古 鶴所 書