大西巨人さんの死去を悼んで

大西巨人さんのライフワーク『神聖喜劇』を知ったのは、大学教養部の哲学の授業のときでした。たまたま最前列で聴講していたら、担当教官の水野一教授がなんの拍子からか「授業を最前列で聞くなんて愚の骨頂だよ」と宣い、大西巨人の『神聖喜劇』の話を始めたのでした。ギリシア哲学の授業の内容はさっぱり覚えていないのに、教授の脱線話の方は鮮明に記憶しています。おまけに、同級生に教授の子息がいて風貌が親父と瓜二つだったことを思い出しました。エピソード記憶だけが定着しているようです(笑)。

教授が紹介したのは、作中の主人公東堂太郎が上官大前田文七軍曹の不可解な質問対して、超人的な記憶力を駆使して見事に答える場面でした。一部引用しておきます(『神聖喜劇』第1巻94頁より)。

「『砲兵操典』に、『数ニ関スル称呼ハ特ニ明瞭ニ発唱シ、誤謬ヲ生ゼシメザルヲ要ス、之ガ為、方向及高低ノ諸分画、信管修正分画、信管分画ニシテ十以下ニ属スルモノ及十位数ニ続カザルモノハ、一ツ、二ツ、三ツ、四、五ツ、六、七、八ツ、九、十・・・(中略)等ト唱フルモノトス」とあります。(中略)これを軍隊外の事柄にかりそめに適用すれば、『ほかの答え』は、『賤ガ岳のナナ本槍』およびヨン十八手であります。」

軍隊においては、数を称呼する際に誤解を生じないよう、四は「し」ではなく「よん」であり、七は「しち」ではなく「なな」であるという規則が存在することを上官が新参兵に教え示す下りです。今日でも、金融機関などでは誤解の生じやすい算用数字(1と7、3と8)の記載には殊更注意するよう新人教育がなされているはずですが、似たような発想です。

以前ブログでも紹介した『米欧回覧実記』、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』等と並んで、『神聖喜劇』は大学時代の読書の大きな収穫でした。軍隊という組織を主題にした小説のなかでも抜きんでた作品であり、間違いなく戦後文学の金字塔のひとつに数えられるでしょう。実社会の身分制度とは一線を画する一見平等な軍隊組織に潜む不条理、天皇を頂点とする階級制度の本質、軍隊生活の実態が、余すところなく活写されています。『神聖喜劇』全5巻に描かれるのは、東堂太郎が教育配属された対馬要塞重砲聯隊における僅か3ヶ月半の出来事です。戦地ではなく内地を小説の舞台にしたところが巧みな設定といえます。

そして、『神聖喜劇』のもうひとつの魅力は、東堂太郎を通して語られる厖大な古典の引用場面です。ときに暴力的で滑稽にさえ見える軍隊生活とは対照的な回想シーンにおいて、博覧強記の東堂太郎誕生の軌跡が明らかにされていきます。田能村竹田や江馬細香(漢詩人で頼山陽の愛人)の名は『神聖喜劇』で知りました。

近いうちにもう一度読み直してみようと思っています。四半世紀に迫る歳月をかけて長編小説『神聖喜劇』を世に送り出した大西巨人さんのご冥福を、心よりお祈りします。