安倍晋三元首相凶弾に斃れる ( 後篇 ) 〜監視社会 vs1 億総発信時代の権力監視〜

今回の安倍元首相襲撃事件に関する一連の報道で一番気になったのは、奈良県警と警視庁から派遣されたというSP1名による警備態勢でした。体制が敷かれていたとしても、即応態勢が整っていなければ警備の実を挙げることはできません。要人警護といえば、誰しもすぐに頭に思い浮かべるのは米国大統領を警護するアメリカ合衆国シークレットサービスではないでしょうか。黒光りする大統領専用リムジンを取り囲むシークレットサービスの物々しい警備と比較するのもおこがましいのですが、いまだに政界に絶大な影響力を及ぼしているとされる安倍元総理のあまりに杜撰な警備に唯々呆れ返っています。1発目から2発目の銃声まで数秒あるのに安倍元首相に覆いかぶさるなどして身を守ろうとした警官は皆無、さらに犯人の身柄拘束時には背後を悠然と自転車に乗ったおじさんが通過する始末。素人目にも警備の名に値しないことは一目瞭然です。

今や、我々一般市民は監視社会に身を委ねています。インターネットの検索履歴やクレジットカードの使用履歴などすべてがユーザーの預かり知らぬところで収集され活用されています。そうした個人情報が匿名のままビッグデータに埋没してくれればいいのですが、そんな保証はどこにもありません。外出すれば、街の至るところに設置された防犯カメラという名の監視カメラが日常生活を隈なく見張っています。残念ながら、見守っているようには感じられません。身近なところでは、マンションやアパートのゴミ収集場所に設置された民間防犯カメラが目障りです。センサーがついていて、夜間だと傍らを通行しただけで照明が灯され撮影されたりするのが日常茶飯事です。肖像権を含めた個人のプライバシーなどなきに等しいのです。近所で何かしらの事件が発生すれば、善良な市民は何疑うこともなくこうした撮影記録を警察に提出するに違いありません。英国を代表するSF作家ジョージ・オーウェルの最高傑作『1984』に描かれた完全なる監視社会は、紛れもない現実世界なのです。

政府、地方自治体、警察権力、巨大なデジタルプラットフォーマーの監視の前に、市民生活におけるプライバシーなど取るに足らない存在と化しています。そんな監視社会において、今回の安倍元首相襲撃事件を通じて、無力な市民が警察権力を監視し得ることがはっきりと確かめられました。随行した警視庁SPや奈良県警にしてみれば前代未聞の大失態。ひと昔前ならメディアを欺きいくらでも言い逃れできたことでしょう。ところが、今回はテレビカメラやスマホホークアイとなって襲撃事件の一部始終をぐるり全方位から撮影し、あまりにお粗末な警備実態をリアルタイムで余すところなく衆目に晒してくれたのです(恥ずかしいのは世界中にこうした映像が拡散されたことです)。怪我の功名とはまさにこのことです。

奈良県警の記者会見は誠に無惨でした。テレビが早々に中継を取り止めたのも当然です。警察と蜜月のメディアの質問内容は切れ味乏しく、奈良県警は核心に一切触れずに<全容解明に努める>とばかり記者会見を逃げ切りました。奈良県警本部長の記者会見も歯切れの悪さが際立ちました。鬼塚本部長は「警護警備に問題があったことは否定できない」とかろうじて認めたものの、具体的な問題点に一切触れず、謝罪や進退について言及を避けたたまでした。これほど明白な前代未聞の大失態にもかかわらず、警備当局はいまだに「警備態勢に重大な不備があった」と認めないのです。

今回の襲撃事件の大きな収穫は、権力が衆人環視の下にあることが確かめられたことです。特に特別公務員の権力が行使される場面においては、一般市民は眼を大きく見開いて、適正に職務が行使されているのかどうか観察を怠らないことです。密室で行われる権力行使も可能なかぎり可視化されるべきなのです。