J.K.ローリングさんのハーバード大学卒業記念講演録|『とてもよい人生のために』(静山社)

隣駅南口の目の前にある図書館、<武蔵野プレイス>へ行くときは、必ず貸出点数上限の10冊を借りてくることにしています。明確に借りる本が決まっていない場合は、あてどなく図書館をほっつき歩きます。そんなときにかぎって思いもよらない素敵な本との出会いがあるからです。最近、ふと目に留まり借りてきたのは、「ハリー・ポッター」シリーズの作者 J.K.ローリングさんが2008年のハーバード大学卒業生向けに行った記念講演を収めた『とてもよい人生のために』(静山社・2017年)です。オリジナルタイトルは、”Very Good Lives”, "The Fringe Benefits of Failure and Importance of Imagination (失敗の思いがけない恩恵と想像力の大切さ)"というサブタイトルがついています。

書架にあったこの本にすっと手が延びました。ずいぶん以前に観た「ハリー・ポッター」シリーズ誕生秘話を紹介するテレビ番組が脳裡に焼き付いていたからでしょう。J.K.ローリングさんの生い立ちから「ハリー・ポッター」シリーズ誕生の経緯を知れば知るほど、月並みな誕生秘話という言葉が陳腐に思えてきます。これこそセレンディピティと呼ぶべきなのです。「ハリー・ポッター」誕生から20年で全世界累計発行部数は4億5000万冊超え、80の言語に翻訳されているのだそうです。wikiによれば、2018年12月1日には5億を突破したとありますから、今もその記録を更新中なのは間違いありません。

2008年のハーバード大学卒業生はこれ以上ない餞の言葉をJ.K.ローリングさんから受け取ったはずです。こんな記念講演を追体験できたのはこの本のお蔭です。これから社会に巣立っていく卒業生はさぞ勇気づけられたことでしょう。2005年6月、スティーブ・ジョブズが米スタンフォード大学卒業式で行った伝説のスピーチ然り、アメリカの一流大学はその名を聞いただけで心がときめいてしまうゲストを招いて卒業式を盛り上げるのですね。日本の大学もこの点は是非見習って欲しいものです。残念なことに、自身の卒業式はいえば出席した記憶以外は1ミリも覚えていません。

わずか11ヵ月で結婚生活に終止符を打ったJ.K.ローリングさんは、幼い娘ジェシカちゃんを抱え、寄る辺ない生活に転落してしまいます。僅かばかりの生活保護を受けながら、貧困や鬱と戦う日々だったといいます。満足な暖房さえ与えられないどん底暮らしのなか、彼女はカフェへ足を運び、エスプレッソ1杯だけを注文し、やがて「ハリーポッターと賢者の石」に結実する原稿を無我夢中で書いていたそうです。傍らには乳母車で眠るジェシカちゃんがいました。

そんな経験を通して彼女はこんな珠玉の言葉を卒業生に贈ります。

<挫折から抜け出して、より賢く、より強くなったことを知れば、それ以後は、生き抜く能力が確実なものになります。逆境によって試されなければ、真の自分をも、人間関係の力をも本当に知ることはないのです。辛い思いをして勝ち取ったこの認識こそ、真の贈り物であり、それまで私が得たどんな資格より価値あるものになりました。>

<人生は難しく、複雑で、完全にそれを制御することなど誰にもできません。そのことを知る謙虚さこそ、人生の浮き沈みを生き抜かせてくれるものなのです。>

彼女のふたつめのメッセージは、アムネスティ・インターナショナルの活動に参加した経験が基になっています。

<この地球上のほかの生物とは違い、人間だけが、自ら経験することなくして学び、理解することができます。他人の立場に立って考えることができるのです。

(注)赤字は筆者による。

恵まれて育ったに違いないハーバードの卒業生に<みなさんのようには恵まれてはいない人々の身になって考える能力を持ち続けるなら・・・(中略)みなさんの存在を褒め称えるでしょう。世界を変革するのに魔法は要りません。すでに私たちの中に、すべての必要な力が備わっているのです。それは、より良い世界を想像する力です。>

最後をこう締めくくります。

<人生は物語と同じだ。いかに長く生きるかではなく、いかに良く生きるかが大切なのだ。>

J.K.ローリングさんの人生が凝縮された珠玉の言葉の数々、是非、本書を手に取って欲しいと思います。もうひとつ、卒業生が彼女の生き方から何を学びべきかを考えてみると、細菌学者パスツールの言葉に行き着きます。「ハリー・ポッター」シリーズの成功は、彼女に偶然訪れた幸運ではないのです。「幸運(チャンス)は準備された心にのみ降り立つ」("Chance favors the prepared mind" or "Chance prefers well-prepared mind")、この言葉も胸に刻んでおきたいですね。