『山小屋ガールの癒されない日々』で知る山小屋のリアルな日常

3年前、山小屋が大の苦手だという友人T君を説得して見晴(尾瀬ヶ原)にある弥四郎小屋に1泊、至仏山に登ったことがあります。テント派のT君は人見知りするタイプで山小屋で見知らぬ登山者と一晩を共にするのは苦痛だというのです。ひと口に山小屋といっても、その形態はさまざまです。このときは幸い2人だけの相部屋を手配したので、彼の心配は杞憂に終わりました。ソロの場合はこうはいきません。以前、上高地の嘉門次小屋に泊まったとき、深夜突然、同室男性が大声で譫言を発し始め暫く収まらず、安眠を著しく妨げられたことがありました。この夏は、さきの弥四郎小屋で隣室の高齢男性が30分以上にわたり大声でスマホトークするので、なかなか寝つけないというアクシデントにも見舞われました。ひとつ屋根の下、見知らぬ者同士が寝食を共にする山小屋は、T君ならずとも、怖気づいてしまう存在なのかも知れません。正体を知らなければ、山小屋と聞いて尻込みするのも無理はありません。

高地にあって特殊な閉鎖空間である山小屋の日常は、とても謎めいていて大いに興味をそそられます。『山小屋ガールの癒されない日々』(吉玉サキ著・平凡社)は、山小屋利用者が普段から抱いている疑問の数々を解き明かしてくれる恰好のノンフィクションです。プロローグはなかなかに衝撃的です。北アルプスの山小屋でアルバイトを始めたのは、筆者が23歳のとき。驚く勿れ、それまで登山は未経験、北アルプスが何処にあるのかさえ知らなかったという告白で始まります。下界(山小屋用語で街のこと)の仕事に上手く順応できず心身のバランスを崩し、一時的にニート状態だった筆者は、幼な馴染みのチヒロさんの薦めで、彼女がワンシーズン働いた山小屋に履歴書を送付、ほどなく採用されてしまいます。それから10年にわたる山小屋ガールの軌跡を綴ったのが本書です。

山小屋で働くスタッフの日常生活は制約だらけです。一番気になるのは、上・下水道のない山小屋でどのように水を確保しているのかということ。北アルプスの山小屋の多くは、沢(水場)からポンプアップで水を確保しているのだそうです。ポンプを動かすには軽油が必要です。沢の水量が減る秋は、水場で作業をしながら凌ぐそうです。山小屋で当たり前のように提供される食事は炊事が大前提、その蔭で涙ぐましい水との格闘があろうとは。

北アルプスの山小屋にスタッフ用のお風呂が存在すると知って少し驚きました。長くても1週間前後辛抱すれば、下界で入浴できる登山者と違って、男女問わずスタッフは毎日汗をかきながら労働しているのですから、少し考えてみれば当たり前のことですね。それでも、週2~3回の入浴につき、スタッフ1名に与えられる水はバケツたった2杯。自分も登山のときは必ず携行するようにしていますが、山小屋スタッフは大量の汗拭きシートや洗顔シートを携えて小屋入りするといいます。常に水不足に悩む山小屋もあれば、水資源の潤沢な小屋もあり、山小屋格差は歴然です。山の上は空気が乾燥しているので、女性は特に保湿クリームなどのスキンケア用品も欠かせません。

原則、生活物資はヘリコプターが運びます。1回で運べる荷物の重さは600kgまで。麓へ降りて荷作りするのも山小屋スタッフの大切な仕事。冷凍食品は直前の荷作りがマストで、天候が悪いときなど、面倒でも荷を崩して再び冷凍庫に戻すのだそうです。悪天候でヘリ待機6泊なんて、山小屋利用者の貧しい想像力の及ぶところではありません。数週間に一度のヘリで間に合わない急ぎの荷物は、歩荷さんが運びます。北アルプスでは山小屋の男子スタッフが歩荷を兼務するそうです。重い荷物を運べる男子は羨望の的らしく、歩荷する段ボールに書き込む重量20㎏のところを30kgと書き換える見栄っぱりもいたりして、思わずほくそ笑んでしまいました。

著者はハイシーズンに100人分以上の食事を作っていたそうです。限られた食堂スペースで提供されるアツアツの料理は、厨房スタッフの涙ぐましい努力の賜物、その集中力たるや凄まじく手放しで称賛したくなります。山小屋では、深い感謝の意を込めて「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶を欠かさないようにしたいものです。

大抵の山小屋は通年営業ではないので、秋になれば小屋閉めとなります。山小屋スタッフは言うなれば季節労働者。冬の間は、スキー場、酒蔵、生産農家、ホテル、レストランと住込みの仕事を探す人もいれば、働かずに山小屋で貯めたお金を原資に旅をする人もいます。サラリーマンやOLになることだけが働き方だと思っている我々下界の住民は蒙を啓かれる思いではないでしょうか。

5年前、涸沢ヒュッテに泊まったとき、台風に直撃され、猛烈な風雨で山小屋ごと吹っ飛んでしまうのではないかと思ったことがあります。<山の荒天は凄まじい>、その通りだと思います。ここまで来たからには荒天だろうと先を進みたいという欲望に打ち克って撤退する勇気がときとして求められるのです。

一番共感したのは、<マウンテンでマウンティングですか?>と題した一章。思わず座布団一枚、いや二枚と声を上げたくなりました。他人に対して自分の方が立場が優位であることを示そうとする振る舞いをマウンティングといいますが、登山歴を披歴したがる輩の何と多いことよ。筆者の言うように、五感で山を感じ、謙虚に山に向かい合うこと、それを常に心掛けたいと思っています。筆者は山小屋で知り合ったKさんと結婚して、今は山を下りて念願だったライターに転身しました。山とふれあい成長する山小屋ガール物語、いかがだったでしょうか。