アンソロジー『石垣りん詩集 表札』を読む

朝日新聞に掲載された記事(2021年9月18日)に触発されて、『石垣りん詩集 表札』(童話屋)を手にとりました。出版社は詩集や絵本を手掛ける童話屋(杉並区成田西2-5-8)。作者と親交のあった創業者で編集者の田中和雄さんが積年の思いを込めて出版されたこの詩集は、掌に収まるポケットサイズ(A6)で帯には<詩は生涯の友だち 詩は君を裏切らない ポケットに一冊の詩集>とあります。童話屋から刊行された5つの詩集から選び抜かれた瑞々しい詩29篇が最新刊『石垣りん詩集 表札』に収録されています。謂わば、石垣りんさんの撰詩集(アンソロジー)です。年譜と共に、「さようならの会」で朗読された谷川俊太郎さんの詩や茨木のり子さんの心につき刺さるような弔辞が収められいて、まさにベストアルバムです。

高等小学校を卒業後、石垣りんさんは日本興業銀行に就職します。周囲から進学の薦めもありながら、1934年(昭和9年)に15歳で家計の担い手となります。生母すみさんが4歳で亡くなり、父親はその後再婚を重ね、家庭環境は複雑だったようです。早く社会に出てお金を稼げば、大好きな詩作に励むことができると石垣りんさんは考えたそうです。戦前のことですから、働く女性への色眼鏡は尋常ではなかったはずです。まして、彼女が病気がちの父親や失業中の弟ふたりを養う家の大黒柱となれば、その労苦は想像を絶するものだったに違いありません。終戦の年(石垣りんさんは25歳)、赤坂の生家は米軍機による空襲で全焼してしまいます。

戦後、職場で組合活動にも従事しながら、39歳(1959年)のとき、処女詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(書肆ユリイカ刊)を出版します。1975年に55歳で日本興業銀行を定年退職するまで、石垣りんさんはひたすら職業人であり続けました。彼女には凡そOLという言葉が似つかわしくありません。「いじわるの詩」では、自分を月給袋に譬え私の家庭は不在だと嘆きます。貧乏や病気と闘いながら、生涯独身を貫いた石垣りんさん(1920~2004)の代表詩は「表札」をおいて他にはありません。我かくあるべしと揺るぎない決意表明を込めたこの詩を読む度に自分に喝を入れたくなります。

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん
それでよい。