舟越桂展@渋谷区立松濤美術館

緊急事態宣言が案の定延長されてしまいました。高まる外出自粛モードのなか、舟越桂展だけは見逃すと後悔しそうなので、会期末に松濤美術館に駆け込みました。最終日前日の1/30(土)の昼過ぎ、似たような思いを抱えた数十名がエントランス前に並んでいました。文庫本に目を落とす女性客が数名、今どき珍しい光景でした。待つこと小一時間、ようやく入場が叶いました。会場内混雑解消のため、鑑賞時間の目安は1時間ということでした。

都内には立派な美術館がたくさんありますが、どちらかと言えば、高層ビルのなかにある空中美術館よりも、地に足のついたこじんまりとした美術館が好みです。日本民藝館根津美術館庭園美術館と共に、松濤美術館はお気に入り美術館のひとつです。建築家白井晟一最晩年の代表作、大きく張り出した垂木の庇と中央に向かって湾曲した紅い花崗岩の外壁が実に印象的です。待ち時間、眺めていて退屈することがありません。来場者を包み込んで招き入れるかの如しです。

展覧会は地下1階からのスタートです。高級住宅街松濤地区だけに、美術館も用途地域の高さ制限に服して低層建築になっているわけです。中央部を貫くように設けられた中庭が地下2階から3階まで吹き抜け空間となって、同時に採光を確保するという趣向です。

展覧会のサブタイトルは<私の中にある泉>。友人知己をモデルに特定の個人の普段着の姿を追求するのが、彫刻家舟越桂スタイルであり真骨頂なのです。白いブラウス姿の女性(「白い歌をきいた」)やYシャツネクタイの上にセーターといういでたちの眼鏡の男性(「夏のシャワー」)など80年代に制作された代表作は、どこにでもいそうな隣人の姿にほかなりません。素材の楠の質感を生かしながら彩色がほどこされているので、例外なく、温かい印象を与えます。いずれも唇を閉じて少し緊張気味にも見えますが、その先に見る者は舟越桂自身の投影を意識させられます。閉じられた唇が次の瞬間、対面した相手に言葉を発するように見えるのです。物語りを始めるのかも知れません。作者がモデルを凝視した結果、塑像に普遍的な人間像が浮かび上がるという寸法です。

1階から次は第二展示室のある2階へ。階段を上れば、建物の空間構成を肌で感じられます。90年代から作品の異形化に取り組み、2000年代になると「スフィンクス・シリーズ」へと結実していきます。半人半獣・両性具有のスフィンクスの首は異様に長く、革でできた長い耳が肩まで垂れ下がっています。地下の作品群とは対照的に、第一印象は冷たい感じです。人間の心奥を見透かすような怜悧な表情も窺えます。スフィンクスは作者のオルター・エゴであり、見る者のそれでもあるのです。

会場最後は、作者が妻や子供のために自作した愛らしい玩具や夥しい数の付箋に記されたメモ書きが展示されていました。創作の背後にある思考回路の一端に触れられる有意義な企画だと思いました。

<理論化できないことは、物語らなければならない>(ウンベルト・エーコ

付箋に記されたこの言葉が刺さりました。今風に言えば、エッジの効いた言葉探しではありませんか。作者はメモ魔だそうです。似た者同士という共通項のお陰で、作者との距離がぐっと狭まった気がしました。