映画『泣き虫しょったんの奇跡』と『将棋の子』(大崎善生著・講談社文庫)

WOWOWの予告編でプロ棋士瀬川晶司さんをモデルにした映画だと知らなければ、危うくスルーするところでした。『泣き虫しょったんの奇跡』(2018年9月公開)は、現在プロ棋士として活躍中の「しょったん」こと瀬川晶司さんの自伝に基づいています。

将棋界では今、史上最年少となる14歳2ヶ月で四段昇段(プロ入り)を果たし中学生プロ棋士となった天才藤井聡太七段が、8つしかないタイトルの2つに挑戦中です。これがどれほど凄いことなのか、『泣き虫しょったんの奇跡』を観るとよく分かります。

プロ棋士になるには、登龍門「奨励会」に入会、6級からスタートして26歳までに三段リーグを勝ち抜いて四段に昇段しなければなりません。「奨励会」の正式名称は公益社団法人日本将棋連盟付属新進棋士奨励会、いわばプロ棋士養成所です。アマチュア五段だった瀬川さんがプロ棋士養成所では6級からのスタート、アマとプロの違いをまざまざと見せつけられます。詳しいプロセスは省略しますが、「奨励会」入会ですら大変な狭き門なのです。試験は年1回、数十名の受験者のなかで入会が許されるのは僅か数名に過ぎません。運良く入会できてもプロ棋士になれる確率は1〜2割だそうです。

瀬川さんは中学生のときに「奨励会」に入会、順調に三段まで駆け上がったものの、1996年に年齢制限に引っ掛かり退会を余儀なくされます。在籍期間は12年、無情にもプロ棋士への門戸は閉ざされてしまいます。たまたま幼い時から将棋の才能に恵まれ、将棋漬けの毎日に身を捧げることになった中学生や高校生がその過酷なプロ棋士へのレースから落伍すると、どんな人生が待ち受けているのでしょうか。6人の敗者にスポットを当てた大崎善生さんの渾身のノンフィクション『将棋の子』(2001年刊行・講談社)を読んだときの鮮烈な記憶が甦ってきました。羽生永世七冠藤井聡太七段が脚光を浴びるなか、「奨励会」の門をくぐれたとしても殆どの棋士の卵は大好きな将棋を諦めざるを得ないのが現実です。「奨励会」を去った圧倒的な多数の若者のなかに、二度と将棋を指さなくなった人や将棋を憎むようになる人もいることも想像に難くありません。焦燥感とか絶望といった通り一遍の言葉では到底言い尽くせない退会者ひとりひとりの思いを、妻夫木聡さんはじめとするキャストが迫真の演技で吐露します。熱気溢れる町の将棋道場で、瀬川少年に将棋指しとしての礼儀を教える道場主をイッセー尾形さんが好演、紫煙が立ちのぼり人いきれでむんむんした将棋道場の光景に懐かしい昭和の空気を感じました。

瀬川さんは、将棋と訣別してしまう退会者とは少し生き様が違っていたようです。好きな将棋を続ける息子を温かく見守る父親や幼い時から将棋で凌ぎを削った同級生の存在が、いつしか、瀬川さんを将棋の世界へ引き戻そうとします。アマチュア将棋の頂点を極めた瀬川さんにプロ棋士との対局チャンスが訪れます。あろうことか、瀬川さんはプロ相手に信じられないような勝率を上げるのです。アマチュア将棋界におけるそんな活躍を知った小学校時代の恩師から、一通のハガキが届きます。「しょったん」が大好きだったドラえもんのイラスト入りでこう書かれていました。この映画の最高のシーンです。

「だいじょうぶ、きっとよい道が拓かれます」

実際に瀬川さんに届いたハガキを再現したものだそうです。《すごいね、しょったん》と褒めてくれた上に《(勉強や運動でなくてもいいのよ)好きなことをとことんやりなさい》という学校の先生からの励ましは本当に力を与えてくれますね。周囲の後押しでプロ編入試験のチャンスを手繰り寄せた瀬川さんは、世紀の舞台で真剣勝負に挑みます。取り返しのつかない一敗地に塗れた瀬川さんにとうとう運命の女神が微笑みます。日本将棋連盟はその後プロ棋士への編入試験を正式に制度化しています。瀬川さんの挑戦は、敗者復活戦という新たな道を後進に拓いた恰好です。

監督・脚本の豊田利晃さん自身が「奨励会」に9年在籍し、将棋の道を諦めた方だそうです。映画監督に転身した豊田さんがメガホンを取ることでふたりの夢が結実したように感じました。

松田龍平野田洋次郎永山絢斗染谷将太妻夫木聡松たか子さんら豪華なキャスト陣も本映画の大きな魅力のひとつだと付言しておきます。

将棋の子 (講談社文庫)

将棋の子 (講談社文庫)