『最後の秘境 東京藝大』を読んで知るアーティストの生態

筆者の二宮敦人氏は、東京芸術大学(以下、「藝大」)に通う妻の浮世離れした暮らしぶりに興味を覚え藝大に潜入し、未来の芸術家の卵に突撃インタビューを敢行した成果を基に、本書を著します。天才たちのカオスの日常という副題のとおり、アーティストの生態は一般人の常識から著しく逸脱していて、筆者ならずとも興味をそそられます。

藝大は上野の杜のほぼ真北に位置し、都道452線を挟んで音楽学部(音校)と美術学部(美校)に分かれています。美校は上野動物園と隣接しているため、本書には飼育動物をめぐる笑えるエピソードが紹介されています。キャンパスは上野の他に、取手、横浜、千住(音楽環境創造科)にもあるようです。藝大と聞いて、真っ先に思い浮かべるのが熾烈な入試。美術学部絵画科(油絵専攻)の競争率に至っては19倍(2016年)を超え、美術学部多浪が当たり前の超難関なのです。二次の実技試験が12時間に及ぶと聞けば、さもありなんです。うりぼうご贔屓の画家や彫刻家のなかにも入試に手こずった天才が大勢います。例えば、夭逝した有元利夫さんは4浪で美術学部デザイン科へ、藝大教授も務めた舟越保武さんでさえ美校の師範科に挑むこと3度、4度目に彫刻科へ転じてようやく入学を許されます。

ところが、音楽学部の競争率はというと全学科平均(2016年)で3.4倍と比較的モデレートな印象を受けます。演奏家は体力勝負で早くプロとして活動した方が得策なのだそうです。選手生命を考えれば、浪人するくらいなら私立の音大へ進んだ方がいいという理に叶った判断があるようです。音校の入試が専ら演奏の正確性を競う客観的なものであるのに対し、美校は果てしなく主観的で、さながら教授陣による人気投票のようです。口笛を吹いたり、ホルンで4コマ漫画の吹き出しにメロディーをつけたりして合格した猛者が存在するのが藝大です。その是非はともかく、芸術大学故に許されるユニークな選考形式には唖然とさせられます。

音校と美校の違いを一言で表すとすれば、第1回流行語大賞に輝いた<マル金マルビ>に尽きると思います。音校に入るためには2〜3歳の頃からレッスンを始め、受験となれば藝大の現役講師陣乃至は元教官に師事するのが当たり前。レッスン代、楽器の購入代、発表会の衣裳代などサラリーマン家庭には無縁の世界です。かたや、美校は総じて貧乏苦学生の巣窟という印象。その奇行は、多様な価値観(美)を許容する美術学部の本質に由来するように思えてなりません。マルビという尺度に照らせば、電通博報堂を目指すデザイン専攻は美術学部の少数派なのかも知れません。

1学年わずか471人という狭き門をくぐった藝大生は、やはり只者ではありません。才能だけでは入れない、芸術の求道者だけが集う世界が藝大ということなのでしょう。本書を読んで、俄然、藝大への関心が昂じてきました。来年こそ、神輿パレードが有名な藝祭を覗いてみようと思います。

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常