じっくりと鑑賞できた「ゴッホとゴーギャン展」

先週末、都美で開催中の「ゴッホゴーギャン展」を鑑賞してきました。会期が短いのでかなりの混雑を覚悟していましたが、週末にもかかわらず、入場待ちは10分程度で済みました。

企画展鑑賞の際は、あらかじめ出品目録で作品数を確認するようにしています。本企画展の出品数は68点とかなり少なめでしたので、観る前から心にゆとりが生まれました。まだブログにアップ出来ていない東博の特別展「禅」の出品数は桁違いの307点でしたから、鑑賞には3時間以上を要し、展覧会慣れしているつもりでも疲労感が募りました。展覧会の単純な比較は無意味ですが、快適な鑑賞環境を整える意味でも、主催者側には出品数を抑える工夫をして欲しいものです。

さて、ゴッホゴーギャンと出会ったのはパリの小さな展覧会でした。1887年11月のことです。展示第2章では、水色の壁面を背景に、2年のパリ滞在中に制作されたゴッホの自画像3点が展示されていました。自画像に目覚めたのはパリ時代だったことが分かります。この時期に、モンティセリに影響された後年の厚塗り自画像の原型はすでに固まっていたようです。ゴッホの弟テオの助言もあって、ゴーギャンもパリを離れ、南仏アルルで二人の共同生活がスタートします。熱心に誘ったのはゴッホの方でした。共同生活の舞台となった「黄色い家」(1944年被災し現存していません)に倣って、第3章の展示会場の壁面が黄色に変わり、館内の印象は一変します。2011年の新装オルセー美術館の展示が嚆矢となった壁の色の変化、確か、ゴッホ美術館も2013年の新装オープンの際に壁の色が青紫に変わったはず。見慣れた印象派の作品が壁の色を変えただけで、新鮮な印象をもたらします。


作風の異なる稀代の天才二人が強烈な個性をぶつけあえば、共同生活はうまくいくはずもありません。有名なゴッホの耳切り事件がクリスマスイブの日(1888年)に勃発し、2ヶ月足らずで二人の共同生活は破綻します。この共同生活が二人に何をもたらしたのかは想像するしかありませんが、共通して言えそうなことは、南仏の暮らしがその後の二人の画業にポジティブな影響を及ぼしたこと。ゴッホの自画像もさることながら、アルル時代に描かれた「収穫」(ファン・ゴッホ美術館)やその後の「オリーブ園」(クレラー=ミュラー美術館蔵)に見られるような生命の躍動を感じさせる作品が誕生した背景には、穏やかな地中海性気候も含めた風土の色濃い影響が看てとれます。

その後、ゴーギャンタヒチに向かい、地元の女たちをモデルにした情熱的な絵を描くことになります。しかし、晩年は病に苦しみ、妻メットとの破局も手伝って、経済的にも精神的にも困窮の度を深めていきます。ゴッホは、ご存知のように、サン=レミの精神病院を経て、オーヴェル=シュル=オワーズの農村にたどり着きます。ピストル自殺を図って(異説もあるようですが・・・)、アルルの共同生活から僅か2年も経たない1890年7月、この世を去ります。

二人の天才画家が共に暮らしたアルル時代を軸に、展示されたゴッホゴーギャンの作品群は恰も丹念に編まれた織物のようでした。会場の出口に置かれた二人の愛用の椅子は、ひときわ光芒を放ったアルル時代、一心不乱にキャンバスに向かった二人の束の間の友情を静かに思い起こさせてくれました。