特別展「巨星・松本清張」を振り返って

この2ヶ月余り、本業とボランティア団体の記念誌づくりに忙殺されて、ブログの更新が出来ませんでした。30日も経ってから記憶をたどって書くというのは、しんどい上に面倒極まる作業です。さはさりながら、最長GWに海外で大自然を満喫するという得難い体験もあったりして、数日かけて何とかブログの空白期間を埋めようと心に決めたところです。

先ずは、神奈川近代文学館で開催された特別展「巨星・松本清張」を振り返ります。会期終了の前日、駈込みました。松本清張(本名:きよはる)は1909(明治42)年生まれ、同い年の作家には、太宰治大岡昇平中島敦埴谷雄高がいます。いずれもブロガーのお気に入り作家です。今年は生誕110年に当たります。中島敦は33歳で、太宰は39才の誕生日直前に他界していますから、清張(歿後27年)と同い年と聞いて違和感を感じる方も少なくないでしょう。

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小倉生まれの定説に対して、広島生まれという有力な異説もあるようです。生家が貧しかったため、尋常高等小学校を卒業した後、文学に目覚めたものの、なかなか働き口が見つかりません。給仕を務めた後、小倉の印刷所で見習い工になった頃から転機が訪れます。自営の版下職人を経て、1940年に朝日新聞西部支社の常勤嘱託に転じます。1944年6月に召集されて兵役に就きますが、ニューギニア戦線への派遣が中止となり、朝鮮で衛生上等兵として終戦を迎えます。出征前に死を覚悟した清張は愛蔵の本に蔵書印を捺したそうです。戦争が清張さんの命を奪わなかったのは僥倖でした。

会場で初めて目にする端正な生原稿やスケッチのクオリティの高さに、先ず驚かされました。作家デビュー前に広告デザイン界で活躍した経歴を知らなかったからです。41歳で懸賞小説に入選し、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞という遅咲きの苦労人清張さんではありますが、その筆力も画才もまさに天下一品です。聞きそびれた講演のなかで、阿刀田高さんは「こんなに死後も人気が高い作家も珍しい」と仰ったそうです。92年の死去までに書いた作品は1千篇近いのだとか、まさに巨星です。丹念な取材に裏づけられた構想力と旺盛な創作意欲には脱帽です。学歴は尋常高等小学校卒でも、若い頃の旺盛な文芸書漁りを血肉化して、大作家へと上り詰めた清張さんは実に偉大です。とりわけ、歴史や社会問題への目配りや深い洞察力には心底感心させられます。

1964年、清張さんは55歳にして初めて海外旅行に出掛けます(1964年海外渡航自由化、1966年に年1回の渡航制限撤廃)。古代史ブームの牽引役のひとりであった清張さんは、アジアや中東にも目を向けます。その好奇心たるや、とどまるところを知りません。自作の映像化にも関心を示し、野村芳太郎監督と霧プロダクションを設立します。

「清張山脈」とは言い得て妙。その昔、『日本の黒い霧』やノンフィクションの名作『昭和史発掘』を貪り読んだ記憶があります。作品分野が多岐にわたるなか、今も版を重ねる「張込み」や「駅路」(いずれも新潮文庫)など、短編にも触れてみようと思っています。

参考:朝日新聞朝刊4面(2019-5-25)