リベラル派はお断り〜希望の党の選別基準〜

民進党が看板を投げ捨てて<希望の党>に合流するとは、さすが魑魅魍魎が棲むという永田町、ただ看板を掛け替えたにすぎないように思うのは自分だけでしょうか。朝日新聞あたりが<野合だ>と批判するかと思いきや今回は沈黙、むしろ論評は好意的ですらあります。自民党御用達の読売新聞の向こうを張って、朝日新聞はあくまで安倍叩きに徹する構えに見えます。早速、橋下徹大阪市長が朝日のこうした論調に疑問を呈しています。確かに、橋下氏の言うとおり、メディアへの信頼が一層低下することは間違いないでしょう。

昨日今日、小池代表が民進党の議員バッジをつけた<リベラル派>は受け容れられないと、高飛車な発言を繰り返しています。例えば、こんな具合です。

新党「希望の党」代表の小池百合子東京都知事は29日の記者会見で、希望の党からの出馬を望む民進党の立候補予定者の絞り込みについて、「リベラル派を『大量虐殺』するのか」と問われ、「(リベラル派が)排除されないということはない。排除する」と言い切った。その上で、小池氏は「安全保障、憲法観といった根幹部分で一致していることが、政党構成員としての必要最低限」と重ねて強調した。

保守派に対する<リベラル派>という対抗軸で使われているようですが、本来の「リベラル(自由主義)」とはずいぶんかけ離れた意味合いで語られています。護憲を旗印に掲げ自衛隊憲法9条に明記することにやみくもに反対する勢力=<リベラル派>ということになっています。Webster'sには、Liberalismとはa political and social philosophy advocating individual freedomとあります。

括弧つき<リベラル派>に対するこうした違和感を紐解いた本があります。橘玲氏の『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』です。政治的立場がリベラルだと主張することは、本来ネガティブなことではありません。メディア報道によって変容してしまったリベラルという言葉が本来の語義を取り戻すことはあり得ないのでしょうか。そうだとすれば、メディアは、あくまで括弧つき<リベラル>として取り扱うべきでしょう。

「リベラル」がうさんくさいのには理由がある

「リベラル」がうさんくさいのには理由がある