現代語訳『十牛図』を読む

待望のGWがスタートしました。新緑が目に眩しい季節ですからアウトドアライフに7割、残りを身辺整理と読書に充てようと思っています。初日は生憎の強風でしたが、今のところ、晴天に恵まれていますね。

昨夜は、図書館から借りてきた『十牛図』(水野聡訳・玄侑宗久監修)を読破。この『十牛図』を手にする度に思いだすことがあります。以前、某生保の企画セクション勤務の同級生から聞いた話です。社長に代わって『十牛図』を題材にエッセイをまとめたところ、大変好評だったそうです。これを機に、新聞や企業PR誌に掲載される社長の愛読書に関する記事に疑いの眼差しを向けるようになりました。本人が読んだかどうかさえ怪しいものです。ビジネス書ならご愛敬ですが、禅のテキスト『十牛図』とは頂けません。

さて本題です。『十牛図』とは禅の教科書に相当し、中国・宋時代に確立したと云われています。本書は日本にもたらされた唯一の伝本(国立国会図書館蔵)が底本になっています。作者は廓庵師遠禅師です。このほかにも江戸時代に伝わった「普明十牛図」というヴァージョン(第十図が「空」の原理を示しますから明快です)もあります。

十枚の絵には、それぞれタイトルが付されています。「尋牛」、「見跡」、「見牛」・・・という具合に。どの絵の構図も同じで四角の各辺に接するように円が描かれています。底本の図柄がweb上に見当たらないので、添付画像はあくまでイメージです。鷹峯の源光庵にある「迷いの窓」と「悟りの窓」を彷彿させます。牛を本来の自分に喩え、少年が失った自己を取り戻そうと放浪の旅に出ます。旅は修行と考えて良さそうです。そもそも本来の自己が失われるはずはないので、自己の内部を発見するための旅ということになります。悟りが得られ旅から戻る(「騎牛帰家」)と、先ず牛が消え(「忘牛存人」)、とうとう人も絵から消えてしまいます(「人牛俱忘」)。円のなかは空っぽです。墨跡の代表的モチーフである円相図にあたります。

ここでおしまいになっても良さそうですが、美しい自然が再び画面に戻ってきます(「返本還源」)。そして、最後の一枚には布袋和尚が微笑みながら少年に語りかける様子が描かれています(「入鄽垂手」)。枯れ木に花を咲かせるように出会った人の弱った生命力を蘇らせていきます。そして、最初の絵に繋がっていきます。

玄侑氏は、「探す自己」と「探される自己」が分裂していること自体が「病」なのだと云います。今を生きる我々誰しもこの病から解放されることはないように思います。どうやってこの病と向き合って生きていったらいいのか、禅寺の住職である玄侑氏は実に有益な指針を授けて下さいます。下手な人生論を読むよりよっぽど為になりますので、引用しておきます。訳者も「がんばる」自分と「がんばらない自分」の両方が必要なのだと主張します。

<大切なのは、生きることの喜びは「頓悟」によってしか感じられず、しかしそれだけでは次なる向上が期待できない、ということだ。つまりこの二つの考え方(「頓悟」と「漸修」)は、合体して初めて人生の大きな指針になるのである>

人生とは、まさに螺旋階段の昇降を繰り返すようなものかも知れません。

現代語訳 十牛図

現代語訳 十牛図

  • 発売日: 2016/01/28
  • メディア: 単行本