今年もあと3ヶ月半、2月下旬から俄かに拡大の一途をたどったコロナ禍は8ヶ月目に突入したことになります。マスク着用マストの不自由なニューノーマルは一体いつまで続くのでしょうか。副作用のないワクチンが一刻も早く開発され、国民に行き渡って<ウィズ・コロナ・ライフ>にピリオドが打たれることを切に願って止みません。
幸い、自分も含め戦後生まれの人間は、戦禍によって命の危険に晒されたり飢餓に苛まれることなく、平和裡に豊かな否豊饒飽食の時代を生きてきました。世界には内戦や飢餓で苦しむ人々は数知れず、世界人口の半数以上が水道水を利用できるようになった今でも、ユニセフによれば、6億63百万人もの人々が安全な水を確保できない現実があります。
コロナ禍は、ある意味、快適な暮らしを求め化石燃料を燃焼し続け地球温暖化を加速させてきた人類への警告だと受け止めています。コロナ以前から、今を生きるべきか、ときどき、手許に置いている禅語の本を紐解くことにしています。
この試練の時代、一番心に響く言葉は「日日是好日」ではないでしょうか。宮沢賢治は病気から恢復したあと、外を自由に歩き回れることは本当に奇蹟みたいなことだと言ったそうです(『声に出して読みたい禅の言葉』より)。緊急事態宣言が解除されたとき、一様に感じた安堵感にも通じます。人口に膾炙したこの言葉を反芻しつつ、日頃から、曇天や雨天を恨めしく思わないことにしています。逆境も好日と受け止める姿勢が、却って心の安寧をもたらすように思います。玄侑宗久さんの『禅的生活』(ちくま新書)には、「本来、あらゆる瞬間は独立していると禅は考える」とあります。因果に落ちず今を楽しめということなのだそうです。「遊戯三昧」も「日日是好日」に通じ、「楽しいことをする」のではなく「することを楽しむ」と禅は発想するわけです。
臨済宗の公案を集めた『碧巌録」に「独坐大雄峰」という言葉があります。ある僧が百丈懐海禅師にこう尋ねます。
「如何なるか是れ奇特の事」(この世で一番尊いものは何でしょうか)
百丈禅師はこう答えます。
「独坐大雄峰」(素晴らしいことはこうして独り高山に坐っていることだ)
禅師は、自分がこの世にどっかと存在していること(こうして今を生きていること)は何と素晴らしいことだと述べているのです。臨済宗妙心寺派大澤山龍雲寺(東京都世田谷区)のHPに、分かりやすい例えが掲載されていたのでご紹介しておきます。
【龍雲寺HPより】
大正時代の初めに、尾崎放哉(一八八五~一九二六年)という放浪の詩人がいました。この人は、東京大学を出て保険会社の支店長にまでなったのですが、三九歳の時に家族、財産の一切を放り出して放浪の生活に出たのです。彼がこういう句を作っています。「爪を切った指が十本ある」―。爪を十本切った、そうしたら指が十本ある。爪を切り終わって広げてみたら十本ある。ごく当たり前の話です。しかしそれを当然と取らずに、不思議と驚きとで十本の指を見るところ、ここにかけがえのない自分、まさに不思議な自分というものがここにある、ということを率直に表した句です。こういうところが「独坐大雄峰」ということに通じるのではないかと思います。
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