2015年春の旅(2)〜原爆ドーム竣工から100年〜

2015年4月5日の今日は、「原爆ドーム」の前身、「広島県物産陳列館」が竣工して100年目にあたります。先週、初めて現地を訪れたばかりなので、感じることが多々あります。

家内と次男は修学旅行で広島平和記念資料館を訪れた経験がありますが、自分にはこれまで広島市街を訪れる機会はありませんでした。高校2年の修学旅行は、秋芳洞厳島神社がメインだったと記憶しています。その修学旅行でさえ、この30年で広島を訪れる生徒は半減したそうです。代わりに、外国人の数は増え続けているというから驚きです。閉館1時間前に入館すると、確かに外国人の姿が目立ちました。同館では入館料を50円に設定した上で、17ヶ国語の音声ガイドの貸出を行っているので、受け容れ体制は万全に近いのではないでしょうか。

東京に住んでいて、車で広島まで移動すると被爆地がいかに遠い存在かを実感します。1945年8月6日に原爆が投下された後、帝都にあって軍部が詳細を把握するのに時間が掛かったのも無理はありません。戦後70年の節目に訪れようと思い立たなければ、自分も余生に広島を訪れる機会があったかどうか確信が持てません。修学旅行というより、成人してからじっくり企業研修等で被爆地を訪れる機会を設けるなどすれば、もっと多くの日本人が被爆地の惨状を直に体験できるのではないかと思います。


元安川本川に囲まれた中島にある広島平和記念資料館(東館は改装中でした)、原爆死没者慰霊碑原爆の子の像といった一群のモニュメントの第一印象は「美しい」という一言に尽きます。この形容が被爆地と似つかわしくないことを承知の上で、チェコ出身ヤン・レツル氏設計の原爆ドーム(3年に一度の点検中で足場が組んでありました)にも同様の印象を抱きました。スケルトンだけになった天蓋を正面にして撮影された写真を幾度となく見てきた過去の印象は、原爆ドームをぐるり周回して一変しました。原爆投下前はさぞや美しい洋館だったことが容易に想像出来たからです。きっと、被爆前の広島は、復興を成し遂げた今と同様、美しい街並だったに違いありません。

1945年8月8日付ワシントン・ポスト紙は、「放射能に汚染された広島は、生物不毛の地となり、75年間年草木も生えない」とするハロルド・ジェイコブソン博士の談話を掲載しました。終戦直後に誰が現在の広島の復興を想像できたでしょうか。奇蹟としか言いようがありません。

現地を立ち去る頃には、原爆ドームが夕焼けに染まっていました。1966年、この原爆ドームを永久保存しようと広島市議会が決議し、1996年には戦勝国の米国や中国の強い反対に遭いながらも世界遺産に指定されました。撤去意見も根強かったようですが、原爆の遺構が保存されたことで後世に核兵器の恐怖を伝えることが可能になったわけです。

2018年春には、広島平和記念資料館本館も全面改装されるそうです。もう一度、その機会に広島を訪れて、今回見逃した追悼平和祈念館や峠三吉詩碑をじっくり見てみたいと思っています。