BS-TBS 「検証メディアの戦争責任」に見るメディアの変節

昨夜、昭和史研究の泰斗半藤一利・保坂正康両氏がテレビ初共演されると知って、BS-TBSの「検証メディアの戦争責任」と題する特集番組を見ました。日露戦争以降のメディアの報道姿勢の変化(むしろ変節というべきか)を時代背景に照らして丹念に検証した番組だったので、大変いい勉強になりました(たまには民放BSも見るものですね)。

昭和8年、日本は国際連盟を脱退し国際的孤立を深めていくわけですが、これに先立って主要メディアが共同声明を出して政府に対して早期に国際連盟を脱退するよう勧告していたとは知りませんでした。太平洋戦争に突入する8年も前にメディア自身がこぞって戦争への布石を打ち始めていたことになります。

その後、メディアと軍部は結託して国民を欺き、対米戦争を煽り正当化していきます。真珠湾攻撃の翌日、新聞各紙は米英膺懲(「ようちょう」と読みます)と大見出しをつけて緒戦の勝利を讃えます。メディアが日本を戦争に導いたと云って決して過言ではありません。3年9か月に及ぶ太平洋戦争中に行われた大本営発表は846回を数えたといいます。その大本営発表がとんでもないでたらめだったことは今や周知の事実ですが、緒戦から次第に歪められていく過程は滑稽ですらあります。虎の子の空母4隻を喪ったミッドウェイ海戦直前までの当初6か月間は勇ましい戦果を挙げていたので大本営発表は概ね正しかったと云って良さそうですが、、その後は目を覆わんばかりの歪曲発表の連続です。

絶対国防圏と位置づけられていた地域の制空権(制海権)を次々と喪うと、軍部は残存兵力を後退させられた防衛線まで撤退させることになります。しかし、大本営は「撤退」ではなく「転戦」と言い換えて発表を行い、戦況を不利を隠ぺいします。こうなると真実からは遠ざかる一方です。守備隊全滅が相次ぐとすべてが虚偽報道となり、果ては米軍の戦果を日本軍の戦果として発表し始めたりします。

クリント・イーストウッドが監督を務めた映画「硫黄島からの手紙」のなかで、硫黄島総指揮官の栗林中将の奮戦とその最期が描かれていますが、彼の辞世一首目も歪められて報道されました。軍部は国民の戦意が削がれないようにと、次のように<散るぞ悲しき>という末尾を<散るぞ口惜し>と改変してしまいます。

●國のため重きつとめを果し得で矢弾つき果て散るぞ口惜し
(昭和20年3月22日付け讀賣報知1面)

メディアの犯した罪は誠に重大でした。日露戦争以降、メディアは存在しなくなったという厳しい指摘すらあります。国策に協力していれば部数も伸びて新聞社の経営は安定します。第4の権力というよりも政府(行政)と一蓮托生なわけです。国家の宣伝要員と化したメディアに戦争を抑止する役割は一切期待できませんでした。

そんな絶望的な状況下、信濃毎日新聞主筆として反戦の論陣を張った桐生悠々(1873-1941)という真のジャーナリストが存在したことを忘れてはなりません。残念なことに、軍部に睨まれ主筆信濃毎日を追われ開戦前に他界されていますが、昭和8年8月に関東一帯で行われた防空演習を批判し、「関東防空大演習を嗤ふ」という社説を発表しています。彼は、太平洋戦争末期に東京が度々米軍の空襲に遭って焦土化することを的確に見通していました。

平和な今日、メディアがキチンと時の権力と対峙し真っ当な批判精神を以て報道に携わっているかどうか疑問に思うことが多々あります。権力への迎合はジャーナリズムの自殺行為だと銘じて、ジャーナリストには、軍靴の響きや跫を敏感に察知し戦争への警鐘を怠らないようにして欲しいものです。