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「ノモンハン事件」は無残な負け戦だった!

太平洋戦争の導火線は、戦端を切った真珠湾攻撃ではなく、歴史上「満州事変」(1931年)とか「支那事変」(1932年)と呼び習わされる局地的紛争にまで遡って考える必要があります。戦史研究の第一人者半藤一利氏によれば、連合国側と戦争不可避な状態に突入し後戻りできない段階、即ち太平洋戦争の「ポイント・オブ・ノーリターン」は日独伊三国同盟の締結(1940年9月27日)ということになります。決して忘れてならないのは、三国同盟締結の前年に満州国モンゴル人民共和国の国境線をめぐって勃発した「ノモンハン事件」です。日本軍はハルハ河を国境と主張しますが、ソ連・モンゴル軍の定める国境線をかなり越境していました。宣戦布告しないで事実上の戦闘状態に突入することを戦争と区別して事変と呼ぶようですが、「ノモンハン事件」は、日本軍(25000人)とソ連・モンゴル両軍(75000人)が投入した兵力に鑑みれば、明らかに大戦争でした。

73年目の終戦記念日に放送されたNHKスペシャルノモンハン 責任なき戦い」は、今も大平原に残る凄まじい戦争の爪痕を、ドローンで撮影した映像とAIを駆使して作成したカラーフィルムで再現してみせます。最も印象に残った映像は、ドローンが空中から撮影した草原の無数の窪みでした。それは、日本軍の侵攻を予期してソ連軍が総延長100kmに及び造設した掩体壕でした。その数、1500余り。掩体壕とは、装備や物資を敵の攻撃から守るために造られますが、ソ連軍は用意周到に延べ300㎢にわたって掩体壕を設け、戦車などを配備していたのです。かたや、身を隠すところさえない大平原で関東軍兵士は、徒手空拳で装備において圧倒的に勝るソ連軍に立ち向かうことになったのでした。

広大な国土を擁するソ連はドイツと戦争状態にあり、極東の国境線に大量派兵は無理と決めてかかった関東軍の上層部に大本営、こうした楽観的な見通しは悉く裏切られてしまいます。ソ連軍は実に周到でした。2個師団をシベリア鉄道で追加派兵、ボルジアからノモンハンまで650kmの長い道程をものともせず戦車等の軍備を移送してしまいます。結果、関東軍の戦死傷者は2万人に達し、主力部隊の8割を喪って5ヶ月にわたる戦闘に終止符を打ちます。停戦を余儀なくされた関東軍の手痛い敗北でした。

番組は、米軍事研究家が1950年代から行った関係者へのインタビュー音源を発掘、辻政信関東軍参謀をはじめ当時の軍上層部は、戦後も責任の所在を明らかにすることはありませんでした。勇敢に戦って命を落としたのは前線の若い指揮官と兵士たちでした。「ノモンハン事件」から貴重な教訓を得ていたならば、無謀な太平洋戦争突入を回避できたのかも知れません。しかし、唯我独尊の軍上層部は精神論(「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」)を振りかざし、第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐に自決を強要、無残な負け戦を振り返ろうともしなかったのです。ご遺族の無念を思うとやり切れません。

ノモンハンの夏 (文春文庫)

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