狂気の戦場ペリリュー〜凄惨な持久戦〜

69回目の終戦記念日を迎えました。早朝から蝉時雨がこだまし、天を仰ぐと雲ひとつない青空が拡がっています。昭和20年8月15日という特別な1日もきっとこんな始まりだったに違いありません。300万人を超える太平洋戦争の日本人犠牲者に衷心より哀悼の意を表したいと思います。

例年この時期、メディアがこぞって先の戦争を振り返る特集番組を組んでくれるので、ドキュメンタリー番組は見逃さないようにしています。

2日前、NHKスペシャルで放映された「狂気の戦場〜忘れられた島の記録〜」は近年稀に見る内容で心底驚愕しました。戦後69年ぶりに米国で見つかった113本の記録フィルムのカラー映像の一部が日米の生存兵士の証言と共に公開されたからです。米海兵隊プロパガンダ目的の映画製作のために18名のカメラマンをペリリューに送り込みます。海兵隊上層部は米軍の圧勝を予想し、兵士の間では3日もあればこの戦いは終わるはずだという楽観的なムードが漂っていました。

ペリリューの戦いが始まったのは1944年9月15日。戦局は大きく傾き、日本が形勢を立て直し挽回を図ることはもはや至難と考えられていた時期にあたります。バンザイ突撃と呼ばれる総突撃が恒常化し、米軍は迎え撃つ準備を整えていました。ところが、大本営は本土防衛の時間稼ぎのためにそれまでの戦術を大きく転換させること決断し、指揮官の中川州男(くにお)大佐に持久戦を命じます。

その結果、3日で終わるはずだった戦いは71日間にわたり繰り広げられ、精鋭部隊を投じた日米双方に甚大な痛手を残して終結します。海兵隊にとって死傷率は歴戦最悪(60%強)となりました。この戦闘が最も不名誉な戦いと云われる所以です。一方、総突撃を何度も具申しながら認められず、中川大佐は陣地保持はもはや困難と判断し11月24日に自決されます。この持久戦術は翌年2月に始まる硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになります。


番組の最後で歴史家のジョン・ダワー氏が次のように締めくくります。

ペリリューの戦いはその後の)容赦なき戦いの原点となった。

ペリリューの戦いで初めて投入された火炎放射器やナパーム弾は硫黄島や沖縄の死闘で大量に使用され、究極の殺戮兵器である焼夷弾や原爆の投下へと繋がっていきます。

取材に応じて凄惨な戦闘の記憶を振り返り証言下さった90歳を越える元兵士の皆さんの言葉、胸に刻ませて頂きました。これからも終戦記念日には、平和な暮らしに感謝を捧げたいと思います。