半藤一利さん逝く

1月12日に作家の半藤一利さん(享年90歳)が他界されました。朝日新聞社会面は、「半藤一利さん死去」に続けて「90歳作家 昭和史に光」と小見出しを打って大きく取り上げました。15日には、共著の多数ある盟友のノンフィクション作家保坂正康氏が「半藤一利さんを悼む」と題した談話を同紙に寄せています。 代表作『日本のいちばん長い日』をはじめとする半藤氏の著作にはずいぶんお世話になったものです。写真(下)はマイ書架に並ぶ半藤氏の著作の一部です。

当ブログに<戦史>というカテゴリーがあるように、第二次世界大戦史、とりわけ太平洋戦争史には常ならぬ関心を払ってきました。<半藤一利>と検索してみると、過去9回もブログで言及していました。半藤氏の著作が断然面白いのは、単に史実をなぞるだけではなく、そうなった直接的間接的原因を徹底的に掘り下げていくからです。そこには、保坂氏がいみじくも指摘するように歴史を帰納的に捉えようとする姿勢があります。

なにより引き込まれたのは、半藤氏の愛憎相半ばする人への尽きない感興です。戦時中に長岡に疎開した関係から、真珠湾攻撃の立役者であり悲劇の英雄山本五十六長岡市出身)の人となりを讃える一方、戦略上の過誤や情にほだされた人事など批判すべき点もキチンと指摘しています。ひっくるめて五十六贔屓を自認する半藤氏の人間愛が曰く言い難い魅力でもあります。『山本五十六』は、山本元帥のみならず氏の人柄を知る上でも恰好の著作といえます。

半藤氏が残した数多くの著書のなかで、ひとつ選べと言われたら迷わず『指揮官と参謀』(文春文庫)を挙げます。天皇VS大元帥山本五十六VS黒島亀人、米内光政V井上成美、牛島満VS長勇など14組のパートナーを取り上げ、興味の尽きないエピソードを交えながら、指揮官と参謀を突き動かした組織(軍)の論理や交差する思惑を解き明かしていきます。こうして歴史の歯車が回り始めると、和戦などもはや叶わぬ夢物語です。『真珠湾の日』に始まった対米戦争は終結まで3年8ヵ月、半藤氏は著書『聖断』を以て天皇大権たる講和の権が行使される過程を克明に描いて、対米戦の首尾を詳らかにします。

「日本人とは何か」と問う畢生の大作『坂の上の雲』以降、司馬遼太郎は昭和史に触れずに他界してしまいました。文藝春秋社時代、担当編集者だった半藤氏に「ノモンハン事件を書くということは、俺に死ねということだ」と語ったそうです。半藤氏は後に『ノモンハンの夏』を著します。学徒動員で戦車兵となった司馬遼太郎がどうしても書けなかった(書くに値しないと感じた)昭和の戦争を、半藤氏がライフワークの対象としたわけです。クールヘッド・ウォームハートとはケンブリッジ学派アルフレッド・マーシャルの言葉ですが、半藤氏はバランスよく両者を駆使して昭和史を体系的に俯瞰して見せてくれました。平成から令和へと同時代が移ろうなか、半藤氏のように常に視座を高める習慣を養いたいものです。

<空也もなか>当日分をゲット!そして期間限定販売の<空也餅>を予約

空也もなか>とは、銀座並木通り(銀座6-7-19)にある和菓子屋さん「空也(くうや)」で販売されている瓢箪型をした最中(写真下)のことです。屋号は初代が関東空也衆のひとりだったことに由来します。京都・六波羅蜜寺の有名な空也上人立像(重文)が胸に鉦をぶらさげているように、空也上人は鉦やひょうたんを叩きながら念仏を唱えて歩いたそうです。<空也もなか>の愛らしい形はこのひょうたんを模したものなのです。この形状に加え、表面にうっすらと焦げ目がついているのが特徴です。この焦し皮は九代目市川團十郎の発案なのだそうです。歌舞伎ファンには何とも嬉しいエピソードです。JR有楽町駅で下車して歌舞伎座新橋演舞場に向かうとき、<空也もなか>が何となく気になるのはそのせいでしょうか?

ビルの1階に「空也」は店舗を構えていますが、一度に入店できるのは数名でしょう。店舗はここだけで通信販売や配送サービスはありません。購入希望者は現地に出向いて買うしかないのです。製造個数は1日8000個前後、予約したお客さんの需要を賄うが精一杯なのでしょう。「空也」は1954年に発足した「銀座百店会」に加盟する明治17年創業の老舗なのです(写真は百店会が観光する小冊子「銀座百点」)。徒に店舗拡大せず、昔ながらの製法にこだわってその日のうちに実店舗で売り切るというスタイル、却って好感が持てます。吉祥寺にあるわずか1坪の店舗で羊羹と最中だけを商う「小ざさ(おざさ)」もこの<空也スタイル>を踏襲しています。美味しいものを食べるための不便なんて厭いません!

冬になると無性に<空也もなか>が食べたくなります。不便を厭わずと云いながら、電話予約は無精者にとって煩わしいものです。ところが、今年1月に入って2度、観劇前に立ち寄ると、両日ともあろうことか当日販売分(1箱10個入り)をゲットすることができました。10名前後の行列は覚悟しなければなりませんが、開店直後の時間帯であれば入手できるようです。コロナ禍で常連さんが外出自粛しているからでしょうか。

1/16に購入した<空也もなか>の消費期限は1/23まで。購入当日も含め消費期限が8日間というのも有り難い!乾燥を防ぐためにラップして常温保存しておくことをおススメします。漱石の『吾輩は猫である』に登場する<空也餅>(消費期限は当日限り)は11月と1月中旬から2月中旬までの期間限定商品、こちらは22日に受け取りに出向くつもりです。

しぶや黒田陶苑の大酒器展2021~今年は一部抽選販売に~

毎年1月、しぶや黒田陶苑で開催される<大酒器展>に足を運ぶことにしています。人気現代作家の趣向を凝らした新作酒器が一堂に会する得難い機会ですから、特に初日は、熱心なファンが詰めかけて行列ができます。HPにはこうあります。

唐津・志野・織部備前・萩・色絵・青瓷など、人気現代作家の新作酒器が一堂に展示され、年初めを祝うような華やかな展示会です。今年は全国の作家31名に出品して戴く他、巨匠作家の逸品も取り揃えております。

コロナ禍が猖獗を極める今年は、混雑回避の観点から、入廊制限措置が講じられていました。初日の11時過ぎに覗いてみると、すでに10名ほどの行列ができていました。入廊前に体温測定とアルコール消毒を済ませます。例年、問い合わせが多いという4人の作家さんについては、先着順から抽選販売に変更されていました。11:00~15:00の間に2点まで希望を申し出て、当選すれば1点購入できるということでした。

抽選対象になった作家さんの略歴を紹介しておきます。

【隠崎隆一】
1950年生。1973年大阪芸術大学卒後、伊勢崎淳に師事、1985年に備前作家として独立。毎日芸術賞や金重陶陽賞等受賞歴多数。

【スナ・フジタ】
藤田匠平(1968年生・京都市立芸大大学院卒)と山野千里(1977年生・同左)による陶器制作ユニット。

【瀬戸毅巳】
1958年生。1981年東京造形大学彫刻家卒、1982年愛知県立窯業訓練校修了、1996年初個展、曜変天目の再現に取り組む。

【見附正康】
1975年生。石川県加賀市出身、1997年石川県九谷焼技術研修所修了、福島武山に師事、2006年経産大臣指定工芸士、2007年独立。

以前から気になっていた2人の作家さんの作品に札入れして、会場をあとにしました。果たして2021年のくじ運や如何に?

1本のロウバイを守った心がほっこりする話

「人々つなぐ1本のロウバイ」と題した新聞記事(2021/1/13付け朝日新聞朝刊)を読んで、思わずほっこり!先週、緊急事態宣言が再発出され、紙面はますますコロナ関連の暗いニュースばかり。対照的に心温まるとてもいい話だったので、ご紹介しておきたいと思います。

玉川上水に架かる「ほたる橋」からほど近い場所にあるそのロウバイの木は、黄色い花を咲かせ今が見頃です。主は手織工房じょうた吉祥寺工房を運営する城達也さんです。半透明で鈍いツヤのある黄色い花びらがまるで蝋細工のようなので、漢字を当てると「蠟梅」になります。ロウバイの背丈は2階屋根に届かんばかりです。この時期、甘い香りを漂わせているので、隣接する玉川上水沿いの遊歩道を歩けば、その存在にすぐ気がつくはずです。

城さんがこの地に引っ越してきたのは2018年6月。更地を購入し自宅兼工房を建設した城さんですが、更地だったその1年ほど前から切り倒されずにこの1本のロウバイがあったそうです。不動産業者からは、前の所有者から<切らないで残してほしい>という希望が伝えられました。といっても、あくまで希望なので城さんが応じる法律上の義務はありません。

城さんはもとよりそのロウバイを残すつもりでした。ロウバイに次のようなメッセージカードが掛けてあったそうです。

<地域のみんなが大好きなこのろう梅を少しでも長い間切らないで残しておいてもらえないでしょうか。お願いいたします!>

建物が竣工してまもなく、ロウバイが開花すると次々とメッセージが寄せられました。

<やさしいお気持ちのおかげでろう梅は今までにないくらいたくさん花をつけ、見事に咲きました>

<今年も蠟梅の香りを楽しむことが出来ました。新しい施主様にも、前の家主さんにも感謝です>

井の頭恩賜公園の近隣に住む者のひとりとして、前の家主の希望を汲んで1本のロウバイを守った城さんとメッセージを寄せたご近所さんの心馳せに胸を打たれました。以前、我が家と道路を挟んだ一軒家に見事なミモザの木が植わっていて、毎年春になると鮮やかな黄色い花を咲かせてくれたものです。ところが、数年前にその一軒家が人手に渡ると、いつの間にかミモザの大木は切り倒され、コンクリート張りの駐車場になってしまいました。こんなエピソードを知って、もしかするとミモザの木を残せたのでは・・・とちょっぴり後悔の念に駆られているところです。他人の庭であっても、四季折々、そこに息づく木々の彩りを愉しむ人がいる、そんな街に愛着が募ってきました。

昨年2月、たまたま日当たりの悪い我が家の小さな庭にもロウバイが仲間に加わりました(写真下)。素心ロウバイの苗木を植えてから約年が経ち、少しずつ蕾が膨らんできました。城さんのお庭のロウバイのように大きく育って欲しいと願っています。

柳美里著『JR上野駅公園口』を読んで~上野の杜で覚える違和感の正体~

あまりにも切なく物哀しい物語だったので、頁をめくる手が止まり、なかなか前へ進むことができませんでした。増刷されたばかりの文庫本の帯にはこう書かれています。

<全米図書賞受賞!全世界が感動した「一人の男」の物語>

これほど本書に似つかわしくない形容はありません。トーハクや都美のある上野恩賜公園にはよく出掛けます。「上野文化の杜」の名の如く、博物館や美術館のほかにも、近隣には上野動物園東京文化会館東京藝術大学が点在しています。御料地が下賜されたので、恩賜公園命名されたわけです。東京市に下賜されたのは1924年のことです。「恩賜」という高貴な響きにふさわしい文化施設が次々と誕生し、今や都内でも有数の人気スポットです。

「上野文化の杜」が恩賜公園の光だとすれば、本書はその華やかな杜に遮られ見えなくなっている陰の実相を浮き彫りにしようとするものです。主人公の独白のあいだに往来を行く人々の何気ない会話が挟み込まれ、主人公の言い知れぬ孤独が露わにされていきます。読み進むにつれ、上野の杜を訪れるとき、決まって違和感を覚える理由が次第に輪郭を顕してきます。国立科学博物館の北側を西へ進むと、ブルーシートと紐で小包のようにコンパクトにまとめられた荷物をよく目にします。天皇皇后両陛下や皇族がお出ましになるときは、こうした荷物が目に触れないように、あらかじめ撤去されてしまうのだそうです。「山狩り」と呼ばれるこうした特別清掃によって陰は闇へと葬られます。新政府軍と相まみえ敗れた旧幕府軍彰義隊はその象徴のひとつです。西郷隆盛銅像も同様です。上野の杜の一角で、賊軍と罵られ正史から弾かれた敗者がまるで肩を寄せ合っているかのようです。本書に度々登場する、平成17年に建立された関東大震災東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑「時忘れじの塔」は、主人公が万感の思いを寄せるモニュメントなのです。こんな描写があります。

西郷隆盛銅像はですね、当初は、皇居外苑広場に設置されるはずだったのですが、西南戦争で官軍に弓引いた逆賊の銅像を皇居の近くに建設するのはいかがなものかという意見があってですね・・・<中略>・・・服装も陸軍大将の軍服から、今の着流しに変更されました。西郷さんの背後に彰義隊士の墓があって、五分も離れていないところにある清水観音堂に上野戦争で官軍の鍋島藩が撃った砲弾が保管されておるなんて、ここはなかなかおかしなところですよ。」

福島県相馬郡出身の主人公カズさんは昭和8年生まれ(上皇陛下と同年)。物心ついたときから7人の弟妹のために、結婚してからは新しい家族のために懸命に働きます。貧乏のどん底にあった昭和35年2月23日、カズさんの妻節子さんが第一子を授かり、同じ日に産まれた今上天皇の幼名浩宮から一字を戴き、浩一と名付けます。働きづめのカズさんに、幼い浩一や2年遅れで生まれた娘洋子が懐くことはありませんでした。レントゲン技師の国家試験に合格し前途洋々のはずの浩一が、21歳になってまもなく突然他界します。

「家を空けていた20年余り、この家で家族がどんな会話をしていたのか、自分は知らない。」

無常にも歳月は流れます。48年に及んだ出稼ぎに終止符を打ち還暦を迎えたカズさんに、妻と娘がSEIKOの腕時計を贈ります。これからようやく平穏な暮らしを取り戻せるはずでした。ところが、運命は非情なものです。苛酷働き者で体が丈夫なことが取り柄だった妻節子さんが65歳の若さで先立ってしまいます。

カズさんは、21歳になったばかりの孫娘麻里さんに迷惑をかけまいと、人生の終盤に在りながら故郷を去る決心をします。置手紙を残して鹿島駅から常磐線に乗車、終点の上野駅に降り立ちます。雨のその夜がカズさんにとって生まれて初めての野宿でした。

上野恩賜公園のホームレスは、東北出身者が多い。」
「この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ。」

2011年3月11日、カズさんの故郷は津波に呑み込まれます。捨てることのできない過去の思い出を箱に収め封印したカズさんは、摺鉢山のコヤ仲間シゲちゃんにも一切を打ち明けることはありませんでした。

「いつも居ない人のことばかりを思う人生だった。・・・<中略>・・・居ない人の思い出の重みを、語ることで軽くするのは嫌だった。自分の秘密を裏切りたくなかった。」

今は亡き自分の両親への思いを重ね合わせて本書を読んだので、魂を揺さぶられる思いでした。カズさんやシゲちゃんの声なき内なる叫びに耳を澄ますことは、今も路上生活を余儀なくされている人へ、たとえ僅かだったとしても、心を寄り添うことに繋がります。社会のレールから外れてしまう恐怖や得体の知れない不安がとめどなく拡がるコロナ禍の時代、本書には圧倒的な共感を呼び覚ます力があります。同時に、視界不良な今日、貧困に喘ぎ差別に苦しむ他者とどう寄り添っていくべきか、羅針盤の役割を果たしてくれるような気がします。共感の先に少しずつ希望が見えてくるに違いありません。昨年末、小一年ぶりに上野を訪れて驚いたことがあります。JR上野駅公園口が少し北へ移動し、ロータリーが出来て駅舎は新しく生まれ変わっていました。文化の薫り高き上野の杜はますます眩しくなって、その陰でひっそり暮らす人々の居場所が奪われてしまうことに繋がらないかと危惧しています。

最後に、福島の方言が散りばめられた本書が英訳され、全米図書賞を受賞したことに驚きを禁じ得ません。訳者モーガン・ジャイルズさんの手腕に唯々脱帽です。

JR上野駅公園口 (河出文庫)

JR上野駅公園口 (河出文庫)

  • 作者:柳美里
  • 発売日: 2017/02/07
  • メディア: 文庫

茶人松永久秀(弾正)と大名物「平蜘蛛」

2020年NHK大河ドラマ麒麟がくる』が終盤を迎えています。茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」を所望する信長に差し出しさえすれば命乞いが叶ったかも知れないのに、吉田鋼太郎演じる松永久秀信貴山城で自刃を選びました。大河ドラマで異彩を放った戦国大名松永久秀は、北条早雲斎藤道三と共に『日本三大梟雄(きょうゆう=悪人のこと)』の一人に数えられます。狡知に長け策略を弄して成り上がった傑物たる点がクローズアップされがちな松永久秀ですが、忘れてならないのは城郭建築の第一人者であることや茶人としての側面です。

久秀は天守および多聞作りを創始した人物としても知られています。当時、城門と櫓を一体化させて防御力を向上させるという発想は誠に革新的で、久秀には「城名人」や「近世式城郭建築の租」の異名があります。

茶人としても一流です。『麒麟がくる』でも久秀が堺の豪商今井宗久や茶人と交流する場面が幾度となく登場しました。当時、一流茶人として認められるためには、名物茶器を所持していることが必須条件だったそうです。久秀は数々の名器を所持していましたが、とりわけ大切にしていたのが、「つくも茄子」と呼ばれる唐物茶入れと「平蜘蛛」茶釜だといわれています。

「つくも茄子」は現存しており、静嘉堂文庫美術館(世田谷)で何度も鑑賞しています。漢字表記は、「付藻茄子」、「九十九髪茄子」、「作物茄子」、「松永茄子」など様々です。「松本茄子」「富士茄子」と並び称される「天下三茄子」のなかで一番高く評価されていて、伝来にもそれが窺えます。それ故、信長に献上したのも所望されて渋々応じたというのが真相でしょう。


足利義満(戦場に携行)→代々足利家→村田珠光(99貫で購入したことから「つくも」に)→松永久秀(一千貫)→織田信長羽柴秀吉→徳川治世・漆塗りの名工・・・→岩崎家

久秀が高さわずか6センチの「九十九髪茄子」を入手したときの対価千貫は、今の金銭価値に引き直せば数千万円に匹敵します。茶釜「平蜘蛛」に至っては、久秀は命と引き換えでも信長に差し出さなかったわけです。「平蜘蛛」は、打ち壊されたとも久秀と共に灰燼に帰したとも伝えられ、現存していません。伝来を断ち切って命と共に大名物「平蜘蛛」を葬った傑物久秀の風流人としての一面に心惹かれます。

もうしばらく海老蔵のままでいい!

三連休の最終日、日テレが毎年1月に放映する『市川海老蔵に、ござりまする2021』をタイムシフト視聴。長引くコロナ禍で「歌舞伎役者を辞めよう」と思うことさえあったと海老蔵さんは呟きます。そして、自らの十三代目市川團十郎白猿襲名の延期よりも、「勸玄君の襲名延期、本人はしたかっただろうな。そっちの方が悲しい」と長男勸玄君への気配りを忘れません。

舞台の仕事がなくなり塗炭の苦しみを味わったのは、役者さんだけではありません。Uber Eatsやコンビニでアルバイトを余儀なくされたスタッフが番組で苦しい胸の内を吐露、そんな窮状を打開しようと70人もの大所帯を預かる海老蔵さんは、2020年9月に熊本・八千代座で公演開催に漕ぎつけます。こうして地方公演を引っ張る一方で、新年の親子共演の舞台に向け、鬼の形相で娘や息子にお稽古をつける海老蔵さんは、さすが市川宗家を背負って立つ座頭です。

今できることをやるんだ、そんな覚悟がひしひしと伝わってきました。

「こういう時こそ、焦らず、騒がずと。何事が起こっても動じない心を鍛錬しよう」
海老蔵のままでいられるから、海老蔵のうちにできることをとことんやってしまおう月間」

<初春海老蔵歌舞伎>は海老蔵さんの有言実行企画だったというわけです。東洲斎写楽の役者絵といえば、五代目市川團十郎演じる竹村定之進。この五代目は息子の海老蔵に六代目を襲名させ、こんな口上を残して(しかも4日で取りやめ)、自らを蝦蔵(えびぞう)と改名してしまいます。

「祖父、親は海老蔵の文字を付けましたが、私がゑびは天蝦(ざこえび)の文字を用ゐまする。又祖父は栢莚、親は五粒、倅は海老蔵の節柏莚、私は白い猿と書いて白猿と申します。此心は名人上手には気が三筋足らぬと申す義でござりまする」(服部幸雄市川團十郎代々』より)

海老蔵さんが近い将来襲名することになる(十三代目市川團十郎)白猿には、五代目の謙虚な姿勢に自らを重ね精進に励みますという覚悟が込められているのです。海老蔵のうちにできることはまだまだあるに違いありません。もうしばらく海老蔵のままでいい、そうエールを贈りたいと思います。

市川團十郎代々 (講談社学術文庫)

市川團十郎代々 (講談社学術文庫)