柳美里著『JR上野駅公園口』を読んで~上野の杜で覚える違和感の正体~

あまりにも切なく物哀しい物語だったので、頁をめくる手が止まり、なかなか前へ進むことができませんでした。増刷されたばかりの文庫本の帯にはこう書かれています。

<全米図書賞受賞!全世界が感動した「一人の男」の物語>

これほど本書に似つかわしくない形容はありません。トーハクや都美のある上野恩賜公園にはよく出掛けます。「上野文化の杜」の名の如く、博物館や美術館のほかにも、近隣には上野動物園東京文化会館東京藝術大学が点在しています。御料地が下賜されたので、恩賜公園命名されたわけです。東京市に下賜されたのは1924年のことです。「恩賜」という高貴な響きにふさわしい文化施設が次々と誕生し、今や都内でも有数の人気スポットです。

「上野文化の杜」が恩賜公園の光だとすれば、本書はその華やかな杜に遮られ見えなくなっている陰の実相を浮き彫りにしようとするものです。主人公の独白のあいだに往来を行く人々の何気ない会話が挟み込まれ、主人公の言い知れぬ孤独が露わにされていきます。読み進むにつれ、上野の杜を訪れるとき、決まって違和感を覚える理由が次第に輪郭を顕してきます。国立科学博物館の北側を西へ進むと、ブルーシートと紐で小包のようにコンパクトにまとめられた荷物をよく目にします。天皇皇后両陛下や皇族がお出ましになるときは、こうした荷物が目に触れないように、あらかじめ撤去されてしまうのだそうです。「山狩り」と呼ばれるこうした特別清掃によって陰は闇へと葬られます。新政府軍と相まみえ敗れた旧幕府軍彰義隊はその象徴のひとつです。西郷隆盛銅像も同様です。上野の杜の一角で、賊軍と罵られ正史から弾かれた敗者がまるで肩を寄せ合っているかのようです。本書に度々登場する、平成17年に建立された関東大震災東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑「時忘れじの塔」は、主人公が万感の思いを寄せるモニュメントなのです。こんな描写があります。

西郷隆盛銅像はですね、当初は、皇居外苑広場に設置されるはずだったのですが、西南戦争で官軍に弓引いた逆賊の銅像を皇居の近くに建設するのはいかがなものかという意見があってですね・・・<中略>・・・服装も陸軍大将の軍服から、今の着流しに変更されました。西郷さんの背後に彰義隊士の墓があって、五分も離れていないところにある清水観音堂に上野戦争で官軍の鍋島藩が撃った砲弾が保管されておるなんて、ここはなかなかおかしなところですよ。」

福島県相馬郡出身の主人公カズさんは昭和8年生まれ(上皇陛下と同年)。物心ついたときから7人の弟妹のために、結婚してからは新しい家族のために懸命に働きます。貧乏のどん底にあった昭和35年2月23日、カズさんの妻節子さんが第一子を授かり、同じ日に産まれた今上天皇の幼名浩宮から一字を戴き、浩一と名付けます。働きづめのカズさんに、幼い浩一や2年遅れで生まれた娘洋子が懐くことはありませんでした。レントゲン技師の国家試験に合格し前途洋々のはずの浩一が、21歳になってまもなく突然他界します。

「家を空けていた20年余り、この家で家族がどんな会話をしていたのか、自分は知らない。」

無常にも歳月は流れます。48年に及んだ出稼ぎに終止符を打ち還暦を迎えたカズさんに、妻と娘がSEIKOの腕時計を贈ります。これからようやく平穏な暮らしを取り戻せるはずでした。ところが、運命は非情なものです。苛酷働き者で体が丈夫なことが取り柄だった妻節子さんが65歳の若さで先立ってしまいます。

カズさんは、21歳になったばかりの孫娘麻里さんに迷惑をかけまいと、人生の終盤に在りながら故郷を去る決心をします。置手紙を残して鹿島駅から常磐線に乗車、終点の上野駅に降り立ちます。雨のその夜がカズさんにとって生まれて初めての野宿でした。

上野恩賜公園のホームレスは、東北出身者が多い。」
「この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ。」

2011年3月11日、カズさんの故郷は津波に呑み込まれます。捨てることのできない過去の思い出を箱に収め封印したカズさんは、摺鉢山のコヤ仲間シゲちゃんにも一切を打ち明けることはありませんでした。

「いつも居ない人のことばかりを思う人生だった。・・・<中略>・・・居ない人の思い出の重みを、語ることで軽くするのは嫌だった。自分の秘密を裏切りたくなかった。」

今は亡き自分の両親への思いを重ね合わせて本書を読んだので、魂を揺さぶられる思いでした。カズさんやシゲちゃんの声なき内なる叫びに耳を澄ますことは、今も路上生活を余儀なくされている人へ、たとえ僅かだったとしても、心を寄り添うことに繋がります。社会のレールから外れてしまう恐怖や得体の知れない不安がとめどなく拡がるコロナ禍の時代、本書には圧倒的な共感を呼び覚ます力があります。同時に、視界不良な今日、貧困に喘ぎ差別に苦しむ他者とどう寄り添っていくべきか、羅針盤の役割を果たしてくれるような気がします。共感の先に少しずつ希望が見えてくるに違いありません。昨年末、小一年ぶりに上野を訪れて驚いたことがあります。JR上野駅公園口が少し北へ移動し、ロータリーが出来て駅舎は新しく生まれ変わっていました。文化の薫り高き上野の杜はますます眩しくなって、その陰でひっそり暮らす人々の居場所が奪われてしまうことに繋がらないかと危惧しています。

最後に、福島の方言が散りばめられた本書が英訳され、全米図書賞を受賞したことに驚きを禁じ得ません。訳者モーガン・ジャイルズさんの手腕に唯々脱帽です。

JR上野駅公園口 (河出文庫)

JR上野駅公園口 (河出文庫)

  • 作者:柳美里
  • 発売日: 2017/02/07
  • メディア: 文庫