山本五十六記念館と「海軍甲事件」

9月下旬の3連休にスノーピーク本社(三条市)キャンプフィールドで野営。滞在中、空いた時間を使って長岡市にある山本五十六記念館を訪れました。瓦葺きの思ったよりこじんまりとした建物がめざす記念館(写真・下)でした。開館前に駐車場は満車になり、次々と来館者がやって来ます。戦後80年近く経っても、山本五十六の人気は一向に衰えません。その背景にあるのは、山本五十六提督が辿ったその数奇な運命です。

日独伊三国同盟に断固反対した非戦派(条約派)の山本五十六(海兵32期)は、陸軍からも敵対視され、右翼から命を狙われるようになります。これを懸念した海軍上層部が山本五十六海軍次官から連合艦隊司令長官へ配置転換させた結果、山本五十六大将はあろうことか真珠湾攻撃の指揮を執ることになります。機動部隊の第一航空艦隊を率いるのは、山本五十六大将麾下の南雲中将、軍縮条約反対派(艦隊派)の論客だった海兵36期の提督です。何という運命の悪戯。その半年後、ミッドウェイ海戦において五十六率いる連合艦隊は虎の子の空母4隻を喪い、緒戦の戦果を帳消しにする大敗を喫してしまいます。以降、戦局は傾く一方です。開戦から1年半足らずで、山本五十六は日本から5千キロ離れた太平洋上最前線で戦死します。


山本五十六記念館公式サイト


山本五十六記念館公式サイト

平成元年(1989年)に里帰りした長官搭乗機の左翼一部が展示室の中央で異彩を放っています。昭和18年(1943年)4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた一式陸攻は16機編成の敵機P38ライトニングに襲撃され、ブーゲンビル島のジャングルに墜落します(「海軍甲事件」)。戦闘時間は5分足らずと言われています。40年以上、ジャングル奥深くで風雨に晒されていた長官搭乗機の残骸の一部が展示されていた一式陸攻の左翼です。大きな日の丸こそ鮮明に見てとれますが、機銃掃射による弾丸の貫通痕が随所に残り、戦闘の激しさを物語っています。宇垣纏参謀長が搭乗したニ番機は水上に不時着(3名生存)しますが、1番機の搭乗員は全員戦死しています。

吉村昭の『海軍乙事件』(文春文庫)に、長官搭乗機の直掩戦闘機6機の操縦士の生き残り・柳谷謙治飛行兵長に取材したノンフィクション「海軍甲事件」(米側ではOperation Vengence即ち報復作戦と呼ばれます)が収録されています。淡々とした叙述に徹して吉村昭は真実に迫ります。長官を守れなかった直掩機のパイロットはその責任を問われ、例外なく遠方激戦地へ飛ばされ散華したとする著書も目にしますが、大本において正しくありません。彼らに対して非難の声は上がらなかったと吉村は言います。生き残った彼らは一機でも多く敵機を撃墜しようと悲壮の覚悟で出撃し、大規模な空戦で大きな戦果を挙げながらも、次々と戦死します。柳谷飛行兵長は、その戦闘に加わる直前の空中戦で被弾し基地で右手首をその付け根から切断され、内地に送還されました。柳谷飛行兵長は、九三式中間練習機の操縦教員として、山形県神町海軍航空隊(現・山形空港)で終戦を迎えます。

悲劇の提督・山本五十六の戦死は全軍の士気に影響を及ぼしかねないと判断され、厳しい箝口令が敷かれ、戦死が公表されたのは翌月5月21日のことです。暗号を解読し周到に準備して臨んだヴェンジェンス作戦は目論見どおり大成功したものの、米軍側はあくまで偶然の撃墜を装い、暗号解読を秘匿すべく長官機撃墜に言及することはありませんでした。「海軍甲事件」は強かな米軍の反攻を象徴する戦闘でした。以降の陸海軍が辿った落日の命運を知れば知るほど、山本五十六提督は運命の死を迎え入れるかのようにラバウル基地を進んで飛び立ったのだとしか思えません。