天明の浅間山大噴火と鎌原観音堂

軽井沢のシンボル浅間山(標高2568m)の噴火警戒レベルは2(23/8/9時点)。今年3月23日にレベル1から引き上げられて以降、火口周辺規制(火口から概ね2kmの範囲)が継続しています。麓の軽井沢から立ち昇る噴煙が見える日は少なくありません。入山規制が緩和されていた5年前の晩秋、初めて浅間山に登りました。真っ黒な砂礫に覆われた猛々しい山腹の光景は忘れもしません。前掛山山頂手前には避難シェルターが設置されています。鼓動が聞こえてきそうな大地のエネルギーを肌で感じた記憶は今も鮮明です。

直近の大規模噴火は240年前の江戸時代、1783年(天明3年)に起きた「天明の大噴火」です。有名な「鬼押出し」は、90日間続いた噴火に伴い押し寄せて来た溶岩流が形成したものです。その荒涼たる景観は噴火の凄まじさを物語っています。人の住まない荒野だったため、犠牲者を出さずに済んだのは幸いでした。

一方、多数の犠牲者が出たのが今回訪れた鎌原(かんばら)観音堂周辺です。当時の鎌原村は570人ほどが暮らす比較的大きな集落で、村の西方にある高台の鎌原観音堂に避難した93人だけが生き残ったと云われています。1979年の発掘調査で赤い太鼓橋(写真・上)の下に35段分の石段があることが確認されました。その際、埋没した石段最下部で若い女性が年輩の女性を背負う姿で発見されています。35段分の高さは6.5mに達し、浅間山の噴火で流出した土石流が村を飲み込んだ恰好です。母娘と思われるご遺体から髪の毛や皮膚の一部が見つかったことからも明らかなように、火砕流や溶岩流による高温で人々が亡くなったわけではありません。時速100kmに達したという「浅間押し」或いは「土石なだれ」と称される激流で大勢の村民が落命したのです。


嬬恋郷土資料館屋上から見る浅間山(資料館から北へ約12km)


流死馬供養塔

観音堂の左手には<爲死馬百六拾五疋>と刻まれた供養地蔵がありました。荷役を担う馬も犠牲になったことが分かります。通りすがりのガイドさんを通じて、鎌原観音堂を訪れた8月5日(旧暦の7月8日)が奇しくも浅間山大噴火の日だと知りました。今年は240回忌にあたり、コロナ禍で式典を見合わせていた天明3年供養祭が午後から執り行われるということでした。観音堂のご本尊に向かって合掌し、未曽有の天災による犠牲者の冥福を祈りました。