「対馬丸事件」の語り部・糸数裕子さん死す

今月5日、「対馬丸事件」の引率教師のひとりだった糸数裕子(いとかずみつこ)さんが亡くなったことを新聞紙面で知りました。糸数さんは、生還された引率教師5人の最後の生存者だったそうです。此処数年、沖縄戦の戦跡を訪ね乍ら「対馬丸記念館」へ足を向けなかったことが悔やまれます。「対馬丸事件」当時、糸数さんは師範学校を卒業し那覇国民学校の教員になったばかりの18歳でした。「NHK戦争証言アーカイブズ」に残された糸数さんの貴重な証言(2009年11月5日収録)を聴くと、「対馬丸事件」前後の時代状況がよく分かります。新任教員だった糸数さんは「こんな大きな船だから大丈夫だ」と思ったそうです。

対馬丸事件」とは、沖縄戦の前年8月22日、本土へ疎開する学童ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」(6754トン)が那覇港を出発、鹿児島県沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈した事件を指します。当時、軍や警察が「対馬丸」が撃沈されたことをひた隠しにし、関係者に厳しい箝口令を布いたため、学童を送り出した親御さんらには消息が伝わらなかったそうです。軍が怖れたのは「対馬丸」沈没が広まると、疎開が進まなくなると判断したからです。人の口に戸は立てられません。疎開先から手紙が届かないことを不審に思ったご家族の間で真相は次第に伝わっていったようです。ところが、翌年の沖縄地上戦で県民の4人にひとりが亡くなったため、学童のご両親が声を上げる機会を失った可能性が大なのです。

学童800人弱を含め乗員の8割強約1500人が犠牲になったと伝えられています。被害の全容は今も明らかになっていません。1997年に沈没した「対馬丸」の船影が発見されましたが、政府は引き揚げ困難と判断し、代わりに「対馬丸記念館」の建設が決まりました。沈没から60年目の2004年8月22日に那覇市若狭で「対馬丸記念館」が開館します。

大勢の学童が犠牲になって、一番辛い思いをしたのは生き残った引率教師です。お子さんの疎開を渋る親御さんを説得する役割を担ったのは、糸数さんら引率教師でした。自責の念と共にサバイバーズ・ギルトを背負って戦後を生き抜いた糸数さんのご冥福をお祈りします。