ヤナギランの丘を訪ねて

10月上旬、数年ぶりに1泊2日の日程で尾瀬ヶ原から尾瀬沼へトレッキングしました。湿原植物の宝庫・尾瀬の最大の魅力は、春のミズバショウに始まり、初夏のワタスゲレンゲツツジ、夏のニッコウキスゲ、秋の草紅葉とテンポの早い季節の移ろいのなかに豊かな色彩の変化が見られることです。

尾瀬を訪れるようになって、真っ先に読んだのが『尾瀬-山小屋三代の記』(後藤允著・岩波新書・絶版)でした。本書を通じて、開発から尾瀬大自然を守った平野長蔵さんから始まる三代の献身的な取組みと奮闘ぶりを詳しく知って、かねがね平野家三代の墓所のあるヤナギランの丘を訪ねたいと思っていました。

ヤナギランの丘は、大江湿原のシンボル3本カラマツの見える木道から少し北へ進んだあたりに位置する笹原状の台地のことです。8月には周辺にピンク色のヤナギランが咲くことからこの名があります。

お墓の前にたどり着くと、数名のグループがガイドさんからの説明を熱心に聞き入っているところでした。グループのひとりが、三代目・長靖さんの著書『尾瀬に死す』について話をされているのを耳にしました。長靖さんは群馬県片品村に生まれ、京都大学を卒業後、北海道新聞社に就職されたのですが、二代目・長英さんから小屋を任された次男・陸男さんが急逝されたため、急遽、家業の長蔵小屋主となったのです。

その頃、三平峠を経由して沼山峠に至る観光道路建設が始まっていて、長靖さんは初代大石武一環境庁長官に建設反対を直訴すべく単身上京し、長官の現地視察を実現させ「尾瀬は世界の宝庫だ」と言わしめたそうです。新潟・福島・群馬の三県知事に加え、時の通産大臣田中角栄も一度認めた工事を中止させるのは無謀だとし、長靖さんは建設推進派から猛反発を喰らいます。先の三代記には地元片品村村民からも工事推進陳情があったと書かれています。四面楚歌の長靖さんは「尾瀬の自然を守る会」を発足させて、工事建設反対に向けて全国規模の自然保護運動展開へと動きます。

そのさなかの1971年12月1日、小屋の越冬準備を 終えた長靖さんは、吹雪の三平峠を下り一ノ瀬休憩所にたどり着く寸前で力尽きて帰らぬ人となったのです。享年36でした。

今日まで尾瀬の美しい大自然が受け継がれ次世代へと継承できるのは、長蔵小屋三代にわたる不断の努力と尾瀬の自然に対する惜しみない愛情の賜物なのです。こうした経緯を知らないで尾瀬を訪れる若い世代に、尾瀬自然保護運動発祥の地と呼ばれる歴史的経緯を少しでも知って欲しいと願っています。これからも、大江湿原を訪れる機会があったときは必ず少し足を延ばして、長蔵小屋主三代への感謝を込めてヤナギランの丘で手を合わせたいと思っています。