10月最終週、空路で石垣島から21時過ぎに那覇へ入り、翌朝から初めて沖縄を訪れるという家人を戦跡へ案内して廻りました。観光名所を訪ねる前に先ずは太平洋戦争末期に想像を絶する激戦地と化した沖縄の過去を肌で感じてもらいたいと思ったからです。
ホテル→旧海軍司令部壕→ひめゆり平和祈念資料館→平和祈念公園(平和の礎ほか)→斎場御嶽(セーファウタキ)
沖縄本島に3泊、最終日の10月30日午後に、首里城公園内にある旧陸軍第32軍司令部壕を訪れました。昨年同時期、早朝、羽田へ向かう途中で首里城火災が発生し(2019年10月31日)、首里城公園に立ち入ることさえできなかったので、首里城公園駐車場にたどりついたときは、「あれからもう1年経つのか」と感懐にふけってしまいました。その日から丁度<首里城復興イベント>が始まり、夜にはプロジェクションマッピングが披露されたそうでうす(その頃は機上の人でしたが・・・)。焼け落ちた首里城から拾い集められた赤瓦は夥しい数の黒い袋に詰め込まれ、破損瓦の処理の一環で、ボランティアさんたちが赤瓦から漆喰を剥がす作業に勤しんでおられました。まさか、丸1年で正殿のあった場所まで入場できるとは思いも寄りませんでした。再建は着々と進んでいるようです。正殿正面にあったという大龍柱は、下之御庭の仮設作業小屋において修復作業中でした。
守礼門手前を左手に少し下って左に折れると本題の第32軍司令部壕入口にたどりつきます。太平洋戦争の負の遺産というべき司令部壕入口は、琉球王国の象徴たる首里城の片隅でまるで存在を隠すかの如し、説明板がなければ、見逃してしまうところでした。75年前の沖縄戦の悲劇を伝える場所は、(崩落の危険性も高いため)今も立ち入りが制限され、封印されたままです。『沖縄決戦』の著者で沖縄戦を指揮した高級参謀八原博通元大佐は、司令部壕をこう描写しています。
「地下三十メートル、延長千数百メートルの大洞窟、多数の事務室や居室、かつての銀座の夜店もかくやと想う。二六時中煌々たる無数の電灯、千余人の将兵を収容して、さながら一大地下ホテルの観がある」
「中型以下の砲爆弾は、無数の豆を鉄板上に落としたように、ただぱんぱんと跳ね返るのみである。とにかく、洞窟内は危険絶無、絶対安全だ」
それが、2020年のこの夏、NHKと沖縄県の共同研究の一環から、内部深奥までカメラが入ることを許されたのだそうです。一部、NHKのWEBサイトからご紹介しておきます。錆びついたヘルメットや小銃の残骸が散らばり、生々しい戦場の一端を今に伝えています。本土決戦までの時間稼ぎとばかり、1945(昭和20)年5月下旬、第32軍司令官牛島満中将は、この司令部壕を放棄し本島南端糸満市摩文仁の洞窟へ司令部を移すこと決断します。こうして持久戦を続けたことによって、8万余の非戦闘員だった沖縄県民の命が奪われたのです。
戦中戦後の沖縄の歴史を知る上で、首里城直下に設けられた総延長約千数百メートルに及ぶ旧陸軍壕の公開は不可欠だと思います。
- 作者:八原 博通
- 発売日: 2015/05/23
- メディア: 文庫