晩秋の奥穂高岳へ(後篇)~最終日の涸沢カールは一面銀世界・晩秋は冬装備がマスト~

早朝、徳澤園の土間で登山靴の紐を結んでいたら、ダウンジャケットを着込んだ30代くらいの女性が「おはようございます。ご出発ですか?」と声を掛けてきました。前日、天候不順で涸沢カールで楽しみにしていたモルゲンロートが見られなかったと嘆いておられたので、「あと10数分で徳澤園からも明神岳(2931m)のモルゲンロートが見られますよ」とアドバイスして出発しました。2日目の10月18日は幸い晴れて絶好の登山日和。本格的な登山道となる横尾大橋から軽快に標高を上げて、9時前に涸沢カールに到着しました。紅葉がピークの半月前ならば、テント泊やロッジ泊の登山客で大賑わいだったはずの涸沢ヒュッテは小屋じまいの準備に大わらわ。2021年の小屋じまいは11月2日、人影はスタッフだけ。受付で2日分の幕営料(2000円X2)を支払い、ヘルメット(1000円)を借りました。

受付で代金を支払いコーヒーで身体を温めていると、前日の夜行バスで上高地入りした大学生O君がほどなく到着、合流しました。昨夏、羅臼岳で知り合ったのがきっかけで今年7月に4泊5日の山行(瑞牆山金峰山等)を敢行、秋の北アルプス行きを約していたからです。涸沢カール(2300m)から次の宿泊地穂高岳山荘(2996m)まで、さらに700m弱標高を上げていくことになります。上高地(1500m)からだと1500m弱の標高差となります。上高地BTから横尾まで速足でCT(3時間6分)を大幅に短縮してやって来たO君曰く、「この単調な道のり(距離にして9.3km)にミニシャトルバスでも運行されていればなぁ」と。

涸沢小屋の横を進み、やがてザイテングラート(支稜線)と呼ばれる岩場に差し掛かると、本格的登りが待ち受けます。所々に矢印がありますが、いま一つ方向感が掴めないまま、何とかザイテングラートは遣り過ごして穂高岳山荘に到着しました。「白出(しらだし)のコル」に位置する穂高岳山荘は、さながら要害堅固な城の如し。穂高連峰を目指す登山者にとってなくてはならない存在です。奥穂高岳(3190m)に祠を設置したのは初代山小屋の主にして伝説の登山ガイドだった今田重太郎氏です。奥穂高岳から岳沢(だけさわ)に至る道は重太郎新道と名付けられています。

気温零度の穂高岳山荘で一息ついたあと、すぐに奥穂高岳にアタック開始。鉄梯子を通過し稜線に出ると、強い横風に襲われ、大きな岩に身を寄せながら進みました。O君と会話が交わせないくらいの横風でネックゲーターを持参しなかったことを心底後悔しました。北アルプスの晩秋には冬装備マストだと痛感させられました。今回持参した薄手の手袋(ドライテックレイングローブ|モンベル)は防寒性能に難ありであまり役にたたず、もう1枚手袋を用意すべきでした。2日目頂上こそ極めたものの、視界はほぼ0、360°の大パノラマをお預けとなりました。

翌朝、5時起床。弁当にしたのが大失敗、穂高岳山荘は朝食が早い!7時30分、山荘左手の涸沢岳(3110m)に登頂、山荘に8時30分に戻りました。午後からの天候急変に備え、ふたりで散々悩んだ挙句、北穂を断念した代わりに奥穂高岳へ再アタックすることに。風もなく前日とは対照的なグッド・コンディションに恵まれ、8時45分に奥穂高岳リベンジ登頂を果たしました。初日、穂高神社に願掛けしたお蔭でしょうか。槍ヶ岳や雲ひとつないジャンダルムの雄姿の撮影にも成功しました。

12時過ぎには涸沢カールまで戻って、鯖缶を肴にスーパードライで乾杯!後は夕方にはテントに入り、翌朝、モルゲンロートを眺めて下山するはずでした。ところが、3時過ぎから霰がパラパラと音を立ててテントに降り注ぎ、眠れぬ夜が始まりました。目をつぶって眠ろうとしてもなかなか眠れず、零時過ぎには本格的に雪が降りだしたようです。軽装備(シュラフの耐寒温度は―1℃まで)だったのでテントに外気が入り込むのを避けるために、レインウエアも着込んでずっとシュラフに包まっていました。うつらうつらしていると、5時過ぎに起き出したO君がテントを埋没させるように降り積もった雪を払ってくれました。涸沢カールで想定外の大雪に見舞われたテント組はわずか6張り。積雪30センチはあったと思います。涸沢のモルゲンロートこそ見逃しましたが、千載一遇の雪化粧した涸沢カールに出会えたのは一生の思い出になりました。

思わぬ大雪にO君は大はしゃぎ。横尾まで下ればあと少し、徳澤園併設のみちくさ食堂で山の手作りカレーを頬ばり、13時過ぎに上高地BTで解散しました。旅はハプニングが付き物だからやめられません。