東日本大震災から10年に思う

2011-3-11 PM2:46 自宅でインテリアコーディネーターと打ち合わせをしていました。2ヶ月後に引越しを控えていたからです。ちなみに、この日は金曜日で六曜は友引でした(曜日の感覚は忘れがちです)。在宅だったので帰宅難民にならずに済みました。経験したことのないような激しい縦揺れがずいぶん長く続いたこの日の記憶は未来永劫忘れることはないでしょう。それから断続的に続いた余震も然りです。咄嗟にとった行動はリビングの本棚の前に立ち塞がって倒れないように押さえたことくらい。コーディネーターと家内はソファに座ったままで動揺した素振りは見られませんでした。幸い、震度は5弱だったので対処できる範囲だったのでしょう。巨大地震が早朝や深夜でなかったことは不幸中の幸いでした。佳境を迎えていた自宅建設は、合板の約3割を生産する東北地方が被災して供給がストップ、自動洗浄のトイレはINAX製が間に合わず急遽TOTOに変更になったりと少なからず影響を受けました。

2021-3-11 PM2:46 在宅ワーク中、東日本大震災10周年追悼式@国立劇場をライブで視聴、1分間の黙祷を捧げました。大震災発生から10年、死者・行方不明者は2万2000人を超え、全国で今なお4万1000人以上が避難生活を送っているそうです。この粛然たる事実を前にして、耳障りのいい復興や復旧という言葉がいかに虚しく響くことか。

決して忘れてならないのは、福島第1原発(以下:イチエフ)で発生した史上最悪レベルの3基炉心溶融メルトダウン)事故の真相です。当時、政府(枝野官房長官)は、爆発的事象というような曖昧な言葉を使ってイチエフで起きていた事態をオブラートに包んで伝えています。アメリカ大使館や在日米軍は事態をより深刻に受け止めていました。振り返れば、日本の半分が放射能汚染で壊滅した可能性も十二分にあったわけで、なぜ最悪の事態(格納容器の爆発)を避けられたのか、未だに真相は闇の中です。イチエフ周辺に大量の放射性物質が飛散させた東電は、1〜4号機の廃炉完了まで30〜40年を見込んでいるといいます。ロードマップが示されてはいますが改訂続きで素人目にも杜撰に映ります。難航が予想される溶け落ちた核燃料の取り出しには着手すらできておらず、見通しは不透明な状況です。旺盛な電力需要に応えるという大義名分があったにせよ、廃炉廃棄物や増え続ける汚染水の処理の目処が立たない原発を是とした政府(原発推進派の自民党政権)・東電は、明らかに道を誤りました。原子炉内部にあった核燃料が溶けて様々な構造物と混じって固まった「燃料デブリ」の取り出しに至っては手つかずの状況だそうです。

津波が敷地内に浸入したイチエフは、SBO (ステーション・ブラックアウト)=全交流電源喪失という想像を絶する苛酷な事態に陥りました(PM3:57)。翌12日PM3:56、1号機の建屋が水素爆発します。そして14日、かろうじて動いていた非常用冷却装置(BCIC)が停止し、冷却も減圧もできない最大の危機を迎えます。当時、未曾有の事故の収拾に当たった吉田所長以下50名の現場スタッフを海外メディアはと讃えています。事実に基づき製作された映画『Fukushima 50』の終盤、吉田所長(渡辺謙)はこう呟きます。

「俺たちはどこで間違っちまったのかな、その答えが分かった気がする。10mを超える津波はやって来ないと40年もの間、盲信していた。自然の力をなめていた。自然を支配したつもりでいた。慢心だ!」

福島第1原発事故は明らかに人災です。3年8ヶ月に及んだ太平洋戦争の敗戦から日本人は何を学んできたのでしょうか。被爆国であればこそ、平和利用であったとしても核の脅威にもっとセンシティブかつ慎重であるべきでした。第二の敗戦からどう学ぶか、そこが問われています。

NHKメルトダウン取材班が10年をかけて1500人以上に取材し事故の真相に迫った『福島第一原発事故の「真実」』がつい最近刊行されました。まだ読めてはいませんが、吉田所長の英断とされる「海水注入」は殆ど原子炉に届かなかったなど、驚愕の事実が明らかにされているようです。