6月23日は沖縄「慰霊の日」~沖縄決戦から75年~

6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。75年前、3ヵ月に及んだ沖縄における日本軍の組織的戦闘が終了した日に当たります。この日の午前4時30分、摩文仁司令部壕海岸側出口において、沖縄守備にあたった第32軍司令官牛島満中将(57歳)と参謀長長勇中将(49歳)が自決し、第32軍が事実上消滅したのです。下の写真右手碑文には「第三十二軍司令部終焉之地」と刻まれています。その後も投降を許されない日本兵は邀撃戦を続行、追い詰められた日本兵が住民を殺害するなど惨劇は続きます。従って、6月23日はあくまで組織的戦闘が終結した日に過ぎません。第32軍将兵(+海軍陸戦隊)、特攻勇士、沖縄島民の三者の善戦敢闘ぶりは、米軍事評論家ハンソン・ボールドウィンをして「太平洋戦争中日本軍で、最も善く戦ったのは、沖縄防衛部隊であった」と言わしめています(八原博通著『沖縄決戦』より)。本土防衛のため、米軍を1日でも長く沖縄に足止めさせようと日本軍は持久戦を選択、結果、20万人余が熾烈を極めた沖縄戦で命を落としています。県民の4人に1人が落命してしまったのは、首里城地下にあった司令部を捨てて、日本軍が多数の住民が避難していた島の最南端へと移動してきたからです。

昨年、初めて沖縄本島を訪ね、糸満市摩文仁にある「平和祈念公園」をはじめとする戦跡を廻りました。今朝、NHKが「平和祈念公園」の「平和の礎(いしじ)」を慰霊で訪れる人々を中継しているを見て、現地を訪れたときの記憶が蘇ってきました。慰霊碑「平和の礎」には軍民問わず、沖縄戦の犠牲者の氏名が刻まれています。今年30人が新たに刻銘され、241593人になったそうです。「平和祈念公園」は摩文仁の丘を南に望み、美しい海岸線を眺望できる台地にあります。沖縄戦の史実を知らずに訪れたならば、風光明媚なリゾート地だと見紛うてしまいそうです。太平洋戦争末期にこんな美しい島を戦場と化してしまった痛恨事を後世の日本人は決して忘れてはなりません。沖縄返還後も在日米軍は沖縄駐留を継続、在日米軍基地の7割(保守派は日米共同施設も含まれるとしてこの数字にいちゃもんをつけますが・・)は沖縄に集中、度重なる事故機オスプレイ配備で住民の猛反発を招いたのは記憶に新しいところです。辺野古移設問題に至っては解決の糸口さえ見えません。沖縄の大動脈、通称「ゴーパチ」と呼ばれる国道58号線鹿児島市から那覇市へ至る海上区間を設けた日本一長い国道)を海岸沿いに走ると、嘉手納基地のフェンスが延々と続いています。終戦後も常に戦争を意識させられるのが沖縄の現状です。基地のある島沖縄の置かれた現況を知るには先ず現地を訪れてみることです。自分も沖縄を訪れるのが遅すぎました!自戒を込めつつ、(沖縄県民以外の)日本人は一度は沖縄を訪れるべきだと強く訴えたいと思います。下の写真は昨年11月上旬に撮影したものです。

平和祈念公園のほかにも、戦跡は本島に点在しています。来年4月の全面リニューアルに向けて準備を進めている「ひめゆり平和祈念資料館」、豊見城市の丘の上にある「旧海軍壕司令部」(全長450mのうち約300mが復元されています)(下の写真は大田實少将(54歳)外幕僚6名が6月13日に最期を遂げた部屋です)、住民の集団自決の舞台となった「チビチリガマ」、激戦地「シュガーロフ(安里52高地)」など、沖縄を訪れる機会があれば、数日滞在して観光地以外にも目を向けて欲しいものです。

戦後70年を過ぎ、「ひめゆり平和祈念資料館」の昨年の来館者は、ピークの100万人(1999年)から半減しているのだそうです。戦争の記憶の継承は沖縄県民にとっても喫緊の課題なのだそうです。戦後生まれの執筆者で編纂されたという『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)を紐解いてみようと思っています。

沖縄戦を知る事典

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  • 発売日: 2019/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)