玉三郎が女形屈指の難役阿古屋を初めて演じたのは1997(平成九)年でした。以来、玉三郎にとって、今年が14回目の舞台になります。玉三郎は、六代目中村歌右衛門から阿古屋役を受け継いだわけですが、その後20年間、彼以外誰ひとりとしてこの難役を演じた者はいませんでした。それが昨年、梅枝(30)と児太郎(24)の若手ふたりが、玉三郎指導の下、この難役に初めて挑んで話題を浚いました。
昨年に続き、2019年12月大歌舞伎昼の部に『壇浦兜軍記 阿古屋』がかかったので、玉三郎の舞台を観てきました。現在上演されているのは、阿古屋が登場する三段目にあたります。平家滅亡後、源頼朝の命令で厳しい残党詮議がなされるなか、平家の勇将景清の行方詮議のため、その愛人だった阿古屋も堀川御所に引き出されます。一番の見どころは、捌き役の秩父庄司重忠(彦三郎)から命じられて、阿古屋が琴、三味線、胡弓を次々と演奏させられる場面です。通称「琴責め」として夙に知られています。阿古屋は景清の行方を知りません。琴では「蕗組の唱歌」、三味線では「班女」、胡弓では「望月」の一節を、阿古屋は行方知らずの景清への思慕の念に愁いを重ねつつ切々とその調べを奏でます。三曲の調べに微塵も乱れがないことを確認した重忠は、阿古屋が景清の行方を知らないと得心します。
三曲を弾きこなす技術に加え、セリフが極端に少ないなか、最高位の遊女阿古屋の品格や色気を表現しなければなりません。46歳でこの役を歌右衛門から受け継いだ玉三郎は、誰にも頼れない孤独な状況で長い時間をかけて役を練り上げてきたのだそうです。歌右衛門からは「弾きすぎないように」とも指導を受けたといいます。12月大歌舞伎で玉三郎演じる阿古屋は円熟の極みでした。
歌右衛門や玉三郎にしか出来ないと言われたこの難役を玉三郎の初演時より遥かに若い梅枝と児太郎が挑み、これから精進を重ねていくわけです。とりわけ、ここ数年の20代中村児太郎の成長ぶりには目を瞠ります。日経夕刊(2019/12/23)の今年の収穫に児太郎の阿古屋や『素襖落』の姫御寮などが取り上げられていました。
もう中堅の域に差し掛かった七之助(36)の乳人政岡(めのと まさおか)役(『伽羅先代萩』)も見事なものでした。政岡は阿古屋と並ぶ女形最高峰の役。品格、強靭な精神、母性を場面に応じて演じ分けなければなりません。政岡が身に着けている打掛けの模様は「雪待ちの松」と呼ばれ、政岡の痛切な心情を表していると言われます。初役ながら、茶道の点前で米を炊く「飯炊き(ままたき)」の所作も堂に入ったものでした。この演目でも、大先輩の玉三郎が稽古をつけて、若手の育成に心血を注いでいます。叶うものなら贔屓の女形七之助の阿古屋もいつの日か観てみたいと思っています。芸の承継と言葉にするのは容易いけれど、舞台で披露された芸の蔭には想像を絶するような弛まぬ稽古があります。これを肝に銘じて、観客も真剣勝負で役者と対峙しなければ失礼というものです。