渡世人を主人公にする小説を「股旅物」と呼びます。「股旅物」と聞けば、誰しも寅さんシリーズを思い起こすのではないでしょうか。二月大歌舞伎昼の部で初めて観ることになった「暗闇の丑松」は、その「股旅物」の系譜に連なる演目で、『瞼の母』や『一本刀土俵入』で知られる長谷川伸が六代目菊五郎にために書き下ろした歌舞伎作品です。
あらすじはざっとこんな感じです。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松(菊五郎)は、愛妻お米(時蔵)を兄貴分の四郎兵衛(左團次)にあずけて江戸を立退きます。一年が経ち、四郎兵衛の為に身を穢され板橋の妓楼に売られていたお米と偶然再会します。お米は騙されて身売りされた事情に理解を示さない丑松に絶望し、その夜、首吊り自殺してしまいます。やがて、丑松は四郎兵衛の非道に気づき、江戸へ戻るや四郎兵衛夫妻を手にかけてしまいます。
昭和9年初演だそうですが、すんなりと入っていける演目です。ただ、全篇を貫くのは丑松が背負った業の重さ。この日、昼の部は「義経千本桜(三段目の鮨屋)」から始まりましたから、観客席の空気は幕間を挟んで重苦しいままでした。序幕、夜中の長屋で繰り広げられるお米と母お熊(橘三郎)との言い争いに端を発して、お米の人生は大きく狂い始めます。序幕切れで屋根伝いに暗闇へと消える二人の姿が実に暗示的です。
丑松がお米を強欲な母親から解放するために刃傷沙汰に及び、お米は丑松が信頼していた兄貴分の四郎兵衛宅に身を寄せるものの、騙されて女郎に身を落としてしまいます。一度狂い始めた人生の歯車は、皮肉なことに後戻りすることはありません。
二幕目、妓楼の丑松・お米の再会シーンは見応えたっぷりです。四郎兵衛に騙された経緯を静かに語るお米、その言葉に耳を傾けようとしない丑松。ふたりの切ない胸の内はすれ違ったままです。返盃したお米が座敷を後にすると、丑松は妓夫の三吉(亀蔵)と話して初めてお米の言葉が本当だったことを知ることになります。お米はこのときすでに裏の銀杏の木に首をくくって果てていて、妓楼は俄かに騒然となります。戸外は篠突く雨、その効果音と相俟って「神立だろうと思うんですが、やがてこいつあ地雨に変わりますぜ」と若い衆のセリフが暗転したふたりの運命と共鳴します。
大詰めの湯屋の場面で、丑松が四郎兵衛を殺めることになりますが、序幕「浅草鳥越の二階」階下の殺人同様、復讐相手四郎兵衛の殺害シーンは登場しません。「二人を殺っちまった」と丑松に言わせて観客の想像に委ねる序幕といい、湯気の立ち上るリアルな湯屋で、湯屋番(橘太郎)や客が大騒ぎする様子から舞台裏での四郎兵衛殺害を仄めかすのは、役者の表情や所作に注目して欲しいという劇作家からのメッセージに他なりません。褌姿がよく似合う橘太郎演じる番頭さんのリズミカルな働きぶり(名人芸でした)にすっかり気を取られて、今回は肝心の劇作家長谷川伸のメッセージを受け止め切れませんでした。一見賑やかな湯屋の舞台が、却って丑松の心の闇を際立たせていることに気づくのが遅すぎました。
本演目の最大の眼目は、四郎兵衛の妻お今(東蔵)を殺めるシーンにあったのでしょう。丑松を裏切った四郎兵衛はナレ死ですから。丑松のためを思って身売りしたのに、四郎兵衛夫妻のみならず誤解から発したとはいえ丑松からも縁切られては、お米は絶望するしかありません。逆にお今は丑松に媚を売ってくる。どこまでも真っ直ぐな丑松は、こうした女の性が許せなかったのでしょうか。数奇な運命に翻弄されるお米はもとより、丑松の刹那の心情を理解するにはこの舞台はなかなかに深淵です。次の機会には刮目して観たいと思います。