狩猟文化について考えてみた~副読本は『サバイバル登山家』&『山賊ダイアリー』~

『サバイバル登山家』の著書で知られる服部文祥さんが日経(夕刊)に寄稿されているエッセイを毎週楽しみにしています。服部さんは1999年から装備を切り詰め食料を現地調達するサバイバル登山を実践なさっている特異なアルピニストです。厳しい自然のなかで文明の利器に頼らずに生きることは、観念的に理解できたとしても、いざ実践するとなると途方もない苦難が襲い掛かってくるといいます。

2日前、服部さんの「はじめての獲物」と題する記事を読んで、最近とみに、狩猟という原始的営みに関心を抱いている自分に気づかされました。こうなると不思議なもので、狩猟人口が激減していると伝えるNHKの番組を熱心に観たり、漫画家にして狩猟家になった岡本健太郎さんのコミック『山賊ダイアリー』が気になったりと、無意識のうちに狩猟という未知の世界へ自分の方から擦り寄っているではありませんか。考えてみれば、きっかけはもっと昔に遡って、マタギをテーマにした熊谷達也さんの小説『邂逅の森』(2004年)と出会った時期なのかも知れません。

秋も深まってくると、食いしん坊の血が騒いでジビエ料理を無性に食べたくなります。ジビエ専門のレストランに足を運ぶと、思わぬ発見があります。普段、私たちの食生活を支える食材の殆どは、畜産や農業を営む専業農家から確立された流通ルートを経て食卓に届きます。従って、ハンターが野山で捕獲する野生の鳥獣が食卓に上ることは先ずあり得ません。初めて鹿を仕留めた服部さん曰く、獲物を撃つ瞬間までに膨大な時間とコストが費やされているのだそうです。巻き狩りと呼ばれるチームで獲物を追い込む狩猟では、ハンターは数時間もタツマ(待ち伏せ場所)で人の気配を消して立ち続けることもあると云われています。

日常の食生活からは決して見えてこないのは、こうした狩猟のディテールだけではなく捕獲した獲物の血抜きや解体作業です。これは養鶏や養豚の場合も同じです。きれいにパックされてスーパーに並ぶ食肉の断片から血なまぐさい屠殺現場を想像することはほぼ不可能です。都内には通称「品川屠場」と呼ばれる屠殺場がありますが、同様に、正式名称の「東京都中央卸売市場食肉市場」と聞いて、「屠場(とじょう)」を想起することは先ずありません。「屠場」を「施設」と言い換えてしまえば同じことです。東京オリンピックに向けて大規模な再開発が進む品川エリアに屠場が存在することを都民で知っている人はむしろ少数派ではないでしょうか。

こうして、人は自らの生に深く関わる凄惨な現場を絶えず日常生活から遠ざけているわけです。動物の命を奪って自らの命を繋ぐ生の営みを直視することで初めて見えてくる命の遣り取り。そこには長い時間をかけて人類が獲得してきた生きるための知恵や工夫が存在し、深淵な狩猟文化さえ形成しています。

服部さんは前述の『サバイバル登山家』のなかでこう言います。

<生命体としてなまなましく生きたい。自分がこの世界に存在していることを感じたい。そのために僕は山登りを続けてきた。そして、ある方法に辿りついた。食料も装備もできるだけ持たずに道のない山を歩いてみるのだ。>

スマホGPSに慣れ切った登山ではもはや自然と繋がることはできないと服部さんは確信したのでしょう。野草でも魚でもいい、自ら口に運ぶものを自らの手で掴まえて調理してこそ、狩猟という原初的営みを深く知る手掛かりが得られるはずです。飽食の日常生活に慣れ切った思考回路をたまには切断してみよう、そんなことを考え始めました。

サバイバル登山家

サバイバル登山家