宮下均君の死を悼んで

老親を見送る世代になったせいか、ここ数年、歳末にかけて年賀欠礼の葉書が届くことが多くなったように思います。学窓を離れ幾星霜、年賀状の遣り取りだけが消息を知る術になっている友人も少なくありません。

ところが、昨日届いた喪中欠礼状は友人の奥様が差出人でした。大学時代の友人宮下均君が8月に他界されたことを2ヶ月遅れで知りました。同級生の突然の訃報に昨夜は茫然自失でした。

咄嗟に浮かんだのは「医者の不養生」という言葉でした。宮下君は精神科の医師だったので激務が祟ったのではと思ったわけです。早逝の知らせに釈然としないまま、気がつくと彼の名前をネット検索していました。

すると、思いもかけない記事が目に飛び込んできました。<精神科医宮下均さん(53)、診察室で患者に刺され死亡>、彼は事件に巻き込まれていたのです。深刻な精神疾患を抱えた患者さんが医師や看護スタッフに危害を加えることは決して珍しいことではないそうです。病院内での事件にもかかわらず、救命が叶わなかったことは返す返すも残念でなりません。

亡き友人を偲んで、宮下均君との思い出を書き留めておこうと思います。彼とは、北大教養部で知り合いました。学部進学を直前に控えた二年次に数名の仲間と道北を旅した記憶は今も鮮やかです。化石の収集は玄人はだしで札幌の自宅で貴重なコレクションを見せてもらったことがあります。往時は炭鉱都市として栄えた三笠までアンモナイト採集に連れて行ってくれたりもしました。採集場所はマニアの間でも秘密なのだそうです。廃屋となった炭鉱住宅に沿って雑草に見え隠れするような細い道を進むとそこが目的地でした。手際よくクリーニングを進めお目当てのアンモナイトが現れたときの得意げな表情は今も目に焼きついています。後知恵になりますが、幾春別川のほとりが採集地だったような気がします。ヒグマをけん制するために笛を鳴らしながら一緒に歩いた記憶はまぎれもない青春の残像です。


大学を卒業して9年余り経った1991年、意外なところで彼と再会することになります。休日のことでした。『ぼくと相棒』(竜口亘・鹿島春光共著)と題する作品が第2回朝日新人文学賞を受賞したという新聞記事のなかで、懐かしい宮下君の顔と出会ったのです。写真付きの記事だったお蔭で有楽町朝日ホールの授賞式でめでたく現実の再会を果たすことができました。穏やかな笑みを浮かべ静かに受賞を喜ぶ彼の表情が印象的でした。早速、単行本を買って受賞作を読んだことはいうまでもありません。

受賞作を読んでさらに驚いたのは、筋書きに記憶のあることでした。大学時代に彼がどうして自分に受賞作の原型になる原稿を手渡したのか、今となっては定かではありませんが、原稿を読んだときの当時の記憶が俄かに甦ったのです。処女作とは思えない表現力に加え巧みなプロットで一気に読ませる才能は非凡だと感じ、本人にそう伝えました。「文藝部だった君にそう言われると嬉しい」と顔をほころばせました。

化石収集をテーマにした受賞作は共著になっていますが、骨組みは間違いなく宮下君が何年も温めて拵えたものでしょう。北大を中退し東北大学理学部地質学科へ転じてから、文字どおり相棒と出会ったのでしょう。そして、一旦就職したにもかかわらず、医師を志し札幌医科大学へ入り直します。卒業後の単調なレールを走るようなサラリーマンライフに飽き足らなかったからでしょうか。


医師になっても創作には意欲を燃やしていました。数年前、分厚な原稿が送られてきたことがあります。文学賞に応募するので批評して欲しいということでした。やはり化石を題材にした小説で舞台は海外でした。少し厳しいコメントをしたため返した覚えがあります。医師になってから書いたという『鉄格子のむこうの青い空』は、北海道新聞文学賞の候補作になったそうです。札医の先輩でもある選者の渡辺淳一氏に酷評されたと零していましたが、元甲子園球児を主人公にしたこの小説はアルコール依存症の患者さんを取り巻く地域医療の現場をユーモアも交え描いた秀作だと思います。続編に期待していた読者も大勢いたことでしょう。

思えば、太古の記憶を刻んだアンモナイトは、生涯彼のそばから離れることはありませんでした。医師となって赴任した先は三笠でした。その地で家族を育み一身を地域医療に捧げる最中、突然彼は生涯を閉じることになりました。心からご冥福をお祈りします。