『中国行きのスロウ・ボート』から映画「トニー滝谷」へ(前篇)

先月下旬、成蹊大学で開講中の<中国>をテーマにした2018年度前期公開講座(写真下は成蹊大学のキャンパス)の初回、「村上春樹にみる中国と日中戦争」を聴講してきました。村上作品にはしばしば中国が原風景として取り上げられます。アメリカ文学の翻訳者としても知られる村上春樹と中国の接点と聞いて、少し意外な感じを受ける若い読者も多いのではないでしょうか。

初期の三部作。『風の歌を聴け』、『1973年のピーンボール』、『羊をめぐる冒険』に登場するジェイは、中国人バーテンダーという設定です。ジェイは、主人公の「僕」やその友人「鼠」の良き話相手という存在なのですが、無口な彼のパーソナルヒストリーは謎に包まれています。自分が就職した年の秋に刊行された『羊をめぐる冒険』のなかに、「良いバーはうまいオムレツとサンドイッチを出すものなんだ」という表現があります。仕事が終わると職場から近い。<ジェイズ・バー>風隠れ家に同期と通って、美味しいオムレツを肴にバーボンを呷ったのは懐かしい思い出です。

最近の村上作品にはあまり感心しませんが、最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』(1983年)は自分のなかでは不動の傑作という位置づけです。ジャズの名曲”On A Slow Boat To China”(ソニー・ロリンズの演奏)からブックタイトルを決めて、作品を仕上げるあたりいかにも時代の旗手という印象です。

ところが、一連の初期作品には想起された死のイメージが中国に繋がるという連関が看てとれます。『風の歌を聴け』の「僕の叔父さんは中国で死んだんだ」という一節から、大方の読者は歴史的に複雑な日中関係を想起することでしょう。泥沼化した日中戦争の歴史を顧みれば、作中の叔父が死んだ理由も気になります。

公式の席上ではプライベートを殆ど語らない村上春樹が2009年にエルサレム賞を受賞した際、「壁と卵」のメタファーを使った受賞スピーチが注目されました。パレスチナ問題に言及する一方、前年に90歳で亡くなった実父のことに触れたのです。村上春樹の父親には大学院生のときに徴兵され中国戦線に送られた体験があって、戦後、敵味方の隔てなく戦死者を弔うべく毎朝自宅で読経をしていたというのです。その父親が多くを語らないまま死と共に戦争の記憶を持ち去ったことに対して、村上春樹は複雑な思いを抱いているようです。スピーチのなかで”I seemed to feel the shadow of death hovering around him"と述べて、生前の父親の周りに死の影が漂っていたことを表白しています。

<中国>とは、村上春樹にとっておぼろげながら時としてくっきりと輪郭を表す戦場の記憶であり、死という観念は<中国人>と深いところで通底しているに違いありません。代表的長編作品『ねじまき鳥クロニクル』でも、<井戸>を媒介として<僕>が戦前の満州や中国大陸と輪のように繋がっていると表現しています。今まであまり意識して村上春樹と<中国>の関係を考えたことはありませんでしたが、公開講座は村上作品を紐解く重要なキーワードを与えてくれたように思います。