ユニクロの酒蔵Tシャツを買ってみた!

学生の時分、ユニクロが存在していたら、きっとインナーからアウターまですべてユニクロ製品で済ませたことでしょう。安価で良質なユニクロ製品に恵まれた今の学生さんが羨ましい。お値段が手頃なファストファッションと称しながら、種類もカラーバリエーションも豊富で街なかでユニクロフリークを見かけたとしても、即座にユニクロファッションかどうか見分けられない点も高く評価しています。最近、ユニクロの新聞チラシを見ていたら、北斎Tシャツに目が止まりました。早速、近所の大型店舗で現物を確認、残念ながらいずれも絵がうるさくて好みには合いませんでした。幸い、近くの棚にあった酒蔵Tシャツに目移りし、結局、自分用に「獺祭」、高知出身の同級生のために「酔鯨」を購入しました。Mサイズは少し窮屈、中肉中背の男性ならLサイズがお勧めです。大型店舗限定販売の由、都内でも大型9店舗限定で現物は品薄のようです。オンラインショッピングの方が好みのTシャツのサイズが見つかる可能性が高いかも知れません。ちなみに、ネイビーブルーの「獺祭」Tシャツの裏側の裾には、カワウソが獲った魚を並べている可愛らしいイラストがさりげなく配されていました。こんな遊び心は大歓迎です。3月に入ってリリースされたこの酒蔵シリーズ、巷では日本酒好きのハートを鷲掴みしているようです。

現在、販売されている「酒蔵」シリーズは11種類、以下のとおりです。
酔鯨(高知県)
南部美人(岩手県)
天狗舞(石川県)
出羽桜(山形県
梵(福井県
獺祭(山口県
月の桂(京都府
剣菱兵庫県
越乃寒梅(新潟県
浦霞宮城県
七田(佐賀県

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シネマレビュー「八甲田山」(1977年公開)

昨年、「八甲田山」の<4Kデジタルリマスター版>が制作されたと知り、またこの名作を見たくなくって、家族も寝静まった深夜に録画を再生することに。まだまだ高価な4Kテレビは我が家にはありませんので、残念ながら、撮影監督木村大作さんが言う鮮やかに蘇ったという画像は拝めませんでしたが・・・・

これで本映画を見るのは三度目、「天は我々を見放した」という北大路欣也のセリフで有名なクライマックスは脳裡に焼きついているのですが、肝心のキャストの記憶は頗る頼りなくて、村山伍長役の緒形拳や若き日の秋吉久美子が案内役で登場することは、すっかり忘却の彼方でした。それにしても、士官クラスのキャストは小林桂樹三國連太郎加山雄三高倉健北大路欣也錚々たる顔ぶれでした。のみならず、映画タイトルも原作と同じ「八甲田山死の彷徨」だとばっかり記憶していたので、内心不明を恥じるばかりでした。八甲田山雪中行軍遭難事件が起きたのは1902(明治35)年1月のことでした。

昨年、この大遭難事件について『八甲田山 消された真実』(伊藤薫著/山と渓谷社)という本が上梓され話題になりました。神田大尉率いる青森歩兵第五連隊は210名中199名が死亡、一方、徳島大尉率いる弘前歩兵第三十一連隊は下士官中心の37名(+1名の新聞記者)という少数精鋭で臨み、全員生還。これほど対照的な雪中行軍の顛末ともなれば、小説家ならずとも創作意欲をそそられるはずです。山岳小説の第一人者新田次郎の手腕ですべてがまことしやかに見えますが、実際は史実に反する記述も多いと同書は指摘します。最後の生き残り小原元伍長の2時間余りの録音を入手した著者はその乖離に驚きを禁じ得なかったといいます。

未曾有の山岳遭難事故の真実を隠蔽するために、当時の第五連隊の事故報告書は著しく歪曲されたものだったのです。以下、人名は実名です。雪中行軍の発案者は陸軍参謀ではなく、第三十一連隊の福島大尉。対抗心を燃やして急遽、雪中行軍を命令したのは津川第五連隊長でした。当時、全国各地を襲った猛烈な寒波がごく短期間(一説には三週間程度)の準備期間しか与えられなかった神成大尉を窮地に追い込んだのはむべもありません。小説や映画では、両連隊とも相当な準備期間を与えられたことになっていますが、創作でした(小説には罪はなく報告書に捏造があったと理解しています)。驚いたのは、責任を負うべき津川連隊長がその後少将に昇進し、寡黙で沈着冷静な福島大尉は実は功名心の強い男で、道案内人を奴隷のように扱っていたことも明らかにされました。第三十一連隊の成功は決して美談ではなかったわけです。救出されピストル自殺したとされる山口少佐の暴走も一因でしたが、神成大尉の盲従ぶりが事態の悪化に拍車をかけたようです。

小説や映画が史上稀に見る山岳遭難を世に広く知らしめた功績は大だとしても、ドラマティックな小説や映像の背後に隠された真相にも目を向けないと遭難した将兵やご遺族は浮かばれません。最大の疑問は、のちの日露戦争において、八甲田山遭難事件の教訓が本当に生かされたのかどうかです。映画で見る貧弱な装備が、その後の寒地研究・訓練の成果を基に、見違えるような本格的装備に生まれ変わったとはとても思えないからです。

八甲田山 消された真実

八甲田山 消された真実

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

シネマレビュー「女王陛下のお気に入り」〜時代背景を読み解きながら〜

第91回アカデミー賞の授賞式(日本時間2月25日)の迫るなか、封切りされたばかりの「女王陛下のお気に入り」を真っ白な頭で鑑賞してきました。大本命「グリーン ブック」と並んで本作の下馬評は頗る高く、本年度アカデミー賞最多10部門にノミネートされています。一切、紹介記事の類いを読まずに劇場に足を運びました。第83回アカデミー賞作品賞含む4部門ほか多数の映画賞受賞に浴した「英国王のスピーチ」への連想も手伝って、本作への期待が膨らみます。

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映画の舞台は、名誉革命の後の英国。メアリー二世が天然痘のため死去、ついで王位を継承したウィリアム三世も即位後まもなく落馬で首の骨を折って死去。映画の主役はウィリアム三世の跡目を継いで1702年に即位したアン女王、スチュアート王家最後の国王です。折しも、英国はスペイン継承戦争の真っ只中。主戦派で名誉革命擁護のホイッグ党と和平派トーリー党との対立は激しさを増していきます。史実ではアン女王はトーリー党贔屓でした。一方、1707年にはイギリス史上極めて重要なイングランドスコットランドの合邦が実現します。即ち、「グレイト・ブリテン」の誕生です。こうした時代背景を頭に入れて観ると、本作への理解が深まります。

アン女王(1665-1714)を演じるのはオリヴィア・コールマン。アン女王といえば、サー・ゴドフリー・ネラーが描いた肖像画(写真下のユトレヒト条約記念金貨にも採用されています)が有名ですが、オリヴィアの風貌は肖像画に瓜二つ。肥満体で糖尿病や痛風に苦しめられ、戴冠式では終始車椅子に座ったままだったそうです。ジョージとの夫婦仲は良好で17回も妊娠しながら、流産や死産に祟られ生まれてきた子供もひとりとして成人せず、私生活は薄幸でした。最期(49歳でした)は太りずぎて、正方形に近い棺を用意しなければならなかったと伝えられます。今でも、紅茶の様式と伝えられる<クイーン・アン・スタイル>の創始者のイメージとはずいぶん隔たりを感じます。

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本題の映画に戻りましょう。豪華絢爛な宮廷において、女官長役のレイチェル・ワイズと侍女役エマ・ストーンが、アン女王の寵愛をめぐって熾烈な権力争いを繰り広げます。《ごめんあそばせ、宮廷では良心は不用品よ。》というキャッチコピーさながら、二人の対立は残忍かつ陰湿な様相を帯びていきます。アン女王の閨房で起きる出来事をきっかけに二人の対立は決定的になります。三大女優の熱演は実に見応えがあります。結末にはやや不満が残りますが、作品賞はともかく主演女優賞や助演女優賞の有力候補に挙げられるのも納得です。

歌舞伎レビュー「暗闇の丑松」(2019年2月歌舞伎座昼の部)

渡世人を主人公にする小説を「股旅物」と呼びます。「股旅物」と聞けば、誰しも寅さんシリーズを思い起こすのではないでしょうか。二月大歌舞伎昼の部で初めて観ることになった「暗闇の丑松」は、その「股旅物」の系譜に連なる演目で、『瞼の母』や『一本刀土俵入』で知られる長谷川伸が六代目菊五郎にために書き下ろした歌舞伎作品です。

あらすじはざっとこんな感じです。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松(菊五郎)は、愛妻お米(時蔵)を兄貴分の四郎兵衛(左團次)にあずけて江戸を立退きます。一年が経ち、四郎兵衛の為に身を穢され板橋の妓楼に売られていたお米と偶然再会します。お米は騙されて身売りされた事情に理解を示さない丑松に絶望し、その夜、首吊り自殺してしまいます。やがて、丑松は四郎兵衛の非道に気づき、江戸へ戻るや四郎兵衛夫妻を手にかけてしまいます。

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昭和9年初演だそうですが、すんなりと入っていける演目です。ただ、全篇を貫くのは丑松が背負った業の重さ。この日、昼の部は「義経千本桜(三段目の鮨屋)」から始まりましたから、観客席の空気は幕間を挟んで重苦しいままでした。序幕、夜中の長屋で繰り広げられるお米と母お熊(橘三郎)との言い争いに端を発して、お米の人生は大きく狂い始めます。序幕切れで屋根伝いに暗闇へと消える二人の姿が実に暗示的です。

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丑松がお米を強欲な母親から解放するために刃傷沙汰に及び、お米は丑松が信頼していた兄貴分の四郎兵衛宅に身を寄せるものの、騙されて女郎に身を落としてしまいます。一度狂い始めた人生の歯車は、皮肉なことに後戻りすることはありません。

二幕目、妓楼の丑松・お米の再会シーンは見応えたっぷりです。四郎兵衛に騙された経緯を静かに語るお米、その言葉に耳を傾けようとしない丑松。ふたりの切ない胸の内はすれ違ったままです。返盃したお米が座敷を後にすると、丑松は妓夫の三吉(亀蔵)と話して初めてお米の言葉が本当だったことを知ることになります。お米はこのときすでに裏の銀杏の木に首をくくって果てていて、妓楼は俄かに騒然となります。戸外は篠突く雨、その効果音と相俟って「神立だろうと思うんですが、やがてこいつあ地雨に変わりますぜ」と若い衆のセリフが暗転したふたりの運命と共鳴します。

大詰めの湯屋の場面で、丑松が四郎兵衛を殺めることになりますが、序幕「浅草鳥越の二階」階下の殺人同様、復讐相手四郎兵衛の殺害シーンは登場しません。「二人を殺っちまった」と丑松に言わせて観客の想像に委ねる序幕といい、湯気の立ち上るリアルな湯屋で、湯屋番(橘太郎)や客が大騒ぎする様子から舞台裏での四郎兵衛殺害を仄めかすのは、役者の表情や所作に注目して欲しいという劇作家からのメッセージに他なりません。褌姿がよく似合う橘太郎演じる番頭さんのリズミカルな働きぶり(名人芸でした)にすっかり気を取られて、今回は肝心の劇作家長谷川伸のメッセージを受け止め切れませんでした。一見賑やかな湯屋の舞台が、却って丑松の心の闇を際立たせていることに気づくのが遅すぎました。

本演目の最大の眼目は、四郎兵衛の妻お今(東蔵)を殺めるシーンにあったのでしょう。丑松を裏切った四郎兵衛はナレ死ですから。丑松のためを思って身売りしたのに、四郎兵衛夫妻のみならず誤解から発したとはいえ丑松からも縁切られては、お米は絶望するしかありません。逆にお今は丑松に媚を売ってくる。どこまでも真っ直ぐな丑松は、こうした女の性が許せなかったのでしょうか。数奇な運命に翻弄されるお米はもとより、丑松の刹那の心情を理解するにはこの舞台はなかなかに深淵です。次の機会には刮目して観たいと思います。

石川直樹写真展2019@東京オペラシティアートギャラリー

写真展のタイトルは〈この星の光の地図を写す〉。今年1月6日の「日曜美術館」で山岳写真家として知られる田淵行男さんの特集番組が放映されたばかりですが、このとき解説者として出演していたのが石川直樹さんでした。山岳写真の世界を変えたと言われる田淵さんの遺志を継ぐ若き写真家のひとりです。

番組では、田淵さんの代表作「初冬の浅間」(1940年)の撮影場所を、石川さんが登山道を歩きながら思案する場面が印象的でした。当時はフィルム撮影、渾身の一枚は反対側の山から望遠レンズで撮ったことが分かりました。去年の8月30日、浅間山の噴火警戒レベルが2から1に引き下げられたことに伴い、火口周辺規制も解除されました。晩秋に浅間山(前掛山)に登頂したばかりだったので、年明けの番組で田淵さんが取り挙げられ、今もフィルムカメラを使いズームレンズに頼らない石川さんの20年を振り返る写真展に誘われたことに不思議な縁を感じます。

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今回の写真展の会場は東京オペラシティアートギャラリー。オペラシティビルの3階、初めて訪れる方には少し場所が分かりにくいかも知れません。入口は写真下をご覧下さい。

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L字型の会場は、Gallery 1,、Gallery 2、Corridorと3つに仕切られています。G1にはデナリ単独登頂(1998)や北極点から赤道を超えて南極点まで人力で縦断する〈Pole to Pole 2000〉の写真が展示されています。20代前半から世界に眼を向けて、写真家として独自の視座を確立していたとは大したものです。G2へ移動すると、中央にはテントが張られ、そのなかでK2(2015)に挑んだ際の動画を鑑賞することになります。テントの床には山をあしらった小さな絨毯が幾つも敷かれ、来館者は車座になってディスプレイに見入っています。相次ぐ雪崩で、石川さんはK2とブロードピークの登頂を断念することになりましたが、神々しいまでの山容を収めた写真からは、容易にてっぺんを踏ませない峻厳さが十二分に伝わってきました。てっぺんからカラコルムの山々を見渡すまで彼の挑戦は続くのでしょう。

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一番時間をかけたのは最後の展示でした。〈石川直樹の部屋〉には、登山道具や愛l読書を並べた本棚、旅先のお土産が所狭しと並べられ、ところどころ付箋に鉛筆でコメントが書かれていました。そのなかから、心温まるメッセージを幾つかご紹介しておきます。

・ぼくはここ初台で生まれました。これは家の近くで撮られた写真です。生まれた場所でこうした展示ができて嬉しいです。
・テントは最高の家です。このテントは二度目のデナリ遠征で使ったもの。目をつぶっていても立てられる。軽い。小さい。
・プジャの儀式でもらえるお守り。登山中は常に身につけている。f:id:uribo0606:20190203115802j:plain

ぼくの道具

ぼくの道具

・ぼくが世界で一番好きな動物はヤク。

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過酷な山行に幾度も挑戦し心身ともに消耗し切っているはずなのに、〈石川直樹の部屋〉からは心の温もりやゆとりが感じられます。遠征先の人々とのふれあいを大切にしている姿はとても魅力的です。なにより、愛読書や思い出の品、登山道具に対する愛着を包み隠さず披露する態度に頗る共感してしまいました。ヤクに言及した付箋を読んで思わずニンマリしてしまいました。というのも、以前、青蔵鉄道経由チベットを旅したとき、自分もヤクに惹かれて、八角街(バルコン)で嬉々として精巧なミニチュアを買ったからです。

本展鑑賞後に、『ぼくの道具』(2016年・平凡社)と『知床半島』(2017・北海道新聞社)を購入、著作に触れながら石川直樹のこれまでの軌跡を辿ってみるつもりです。

ムーティ×シカゴ交響楽団で聴くブラームスの交響曲第一番&第二番

昨夜、サントリーホールで開催された冠公演に招待されて、リッカルド・ムーティ×シカゴ交響楽団という夢の共演を聴いて参りました。外気温は5度前後、久しぶりに開場を告げるパイプオルゴールを聞きました。ムーティシカゴ交響楽団音楽監督で、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団フィラデルフィア管弦楽団などの名門フィルを指揮した実績を持つ現役マエストロの頂点に君臨するひとりです。2018年のウィーンフィルニューイヤーコンサートで五度目の指揮台に上がったのは記憶に新しいところです。

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曲目はブラームス交響曲第一番(Op.68)と第二番(Op.73)。生涯で4つ作った交響曲のうち、第一番はベートーヴェンのシンフォニーの系譜を正統に承継することから、「第10交響曲」と呼ばれたりします。偉大な先達ベートーヴェンを意識したのか、交響曲第一番の着想から完成まで21年を要したといわれています。

重苦しい雰囲気で始まる序奏から、落ち着いた印象の第2楽章へ。短い間奏曲風の第3楽章を挟んで第4楽章に入ると、ストリングスのピチカートが軽快に奏でられ、トローンボンとファゴットがコラール風に歌い、歓喜の瞬間へと導いてくれます。

交響曲第二番はベートーヴェンの「田園」(第六番)に喩えられます。暗闇から光明へと劇的に展開する交響曲一番に比べて、二番は確かにのびやかなで明朗快活な印象を与えます。完成まで長い時間を掛けた一番とは対照的に、重圧から解放されたような躍動感溢れる曲目をムーティが実に楽し気に指揮してくれました。背筋をピンと伸ばして、左右正面へと豊かな身振り手振りで指示を出すエネルギッシュな指揮ぶりは、さすが偉大なマエストロ。とても77歳とは思えません。

舞台後方席で聴けたらなお良かったのですが、贅沢は言えませんね。サントリーホールはヴィンヤード型、カラヤンサントリーホールの設計に際して「コンサートは壁に向かって演奏するのではなくて、そこに集まった人たちと一体になって、一緒に、共に音楽をするのです」と初代館長の佐治敬三さんにアドバイスしたのだそうです。文字通り、客席とステージが一体となった素晴らしい演奏会でした。

アンコールはブラームスハンガリー舞曲第一番。アンコールピースの定番、アップテンポで力強い演奏にすっかり魅了されてしまいました。万雷の拍手の心地よい残響を耳元に感じながら、会場を後にしました。

東京駅丸の内駅舎(重文)は絵になります!

東京で好きなスポットはと問われれば、躊躇なく東京駅丸の内駅舎と明治神宮と答えます。どちらも東京を代表するランドマークですが、歴史的価値において、他の追随を許さないスポットだと断言できます。明治神宮に関しては、常緑広葉樹を植えて明治神宮の森を作り上げた本多静六先生の生誕150年にあたる2016年に当ブログで取り上げたので、今日は東京駅丸の内駅舎について少し掘り下げてみることにします。

先日、東京ステーションギャラリーを訪れた際、「東京駅のみどころ」(2017年12月版)と題する縦長のパンフレットを入手しました。東京ステーションシティ運営協議会という団体が発行しているこのパンフレットは、なかなか有益な情報を提供してくれます。後述する具体的な復原作業も一部このパンフレットのなかで言及されています。

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東京駅乗り入れている路線は、在来線9路線、新幹線4路線に地下鉄丸の内線を加えて14路線。ですから、東京駅は広大で東西ではまったく表情が異なります。東側の八重洲口は、帆を模したモダンな屋根が特徴的でグランルーフと呼ばれています。こちらは、かなり離れて見ないと斬新なデザイン性を体感することは出来ません。

東京駅の顔といえば、国の重要文化財に指定されている丸の内駅舎。平成24(2012)年に創建当時の姿に復原されて、惚れ惚れするような芸術的建造物に生まれ変わりました(かつて、丸の内駅舎のモデルはアムステルダム中央駅だとされてきましたが、建築様式が異なることを理由に近年は否定する見解が有力だそうです)。そして、平成29(2017)年には、ロータリーと長いあいだ視界を遮ってきた工事用の障壁が撤去され、駅前広場から丸の内駅舎の全容を見渡せるようになったのです。駅舎と駅前広場は、行幸通りから皇居へと連なる統一的景観を形成し、その美しさといったらまさに東京のシンボルです。周辺高層ビルとは対照的に、丸の内駅舎は低層で圧迫感がなくレトロな化粧レンガが目に和みます。両者は互いに反発するのではなく、東京の過去と現代を有機的に結びつけて見事な調和(ハーモニー)を実現しています。日没後、駅舎は21:00までライトアップ(照明デザイナーは面出薫さん)され、昼間とは全く違う表情を湛えます。ライトアップにも工夫が凝らされ、幻想的な光景を演出してくれます。

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東京駅を設計したのは名匠辰野金吾大正12年関東大震災に遭った際も丸の内駅舎は被害なし、その堅牢さこそ建造物の根幹です。ところが、終戦の年、空襲で3階部分が焼失し、その後、長期間に渡って手を加えられることはありませんでした。費用面の制約が大きかったからでしょう。掛かった復原費用は約500億円、空中権の売却で捻出されたのだそうです。東京の玄関口イコール日本の玄関口、着工から5年の歳月を要した大規模工事(免震工事を含む)に挑んだ関係者の着想と英断に心底敬服します。

褐色の化粧レンガに白い花崗(かこう)岩を帯状に配したデザインとビクトリア調のドームは「辰野式」と呼ばれ、創建当時の姿を再現するためには手間ひまのかかる職人仕事が欠かせませんでした。化粧レンガの再現、覆輪目地の保存・復原、天然スレート屋根の復原など、数えきれない細部にこだわった作業の集積が美しい丸の内駅舎を甦らせたのです。