大学時代、経済の基本くらい学んでおこうと思い、法学部生でありながら「経済原論」2単位を履修し「優」を貰いました。当時はマル経が下火になり、近代経済学が主流になりつありました。教養課程でサミュエルソンの『経済学』を齧った記憶はあれど、「経済原論」で何を教わったのか、全く記憶にありません。大学に入学したのは、全国に吹き荒れた大学紛争(1968-1969年)の嵐が去って10年後ですから、マルクスの『資本論』やマルクスとエンゲルスが共産主義者同盟の綱領として起草した発表した『共産党宣言』を読まずじまいのままなのです。
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書)を読んだことをきっかけに、毫も疑わなかった資本主義の功罪について深く考えるようになりました。マルクスは、資本主義が発展・成熟すると最終的に労働者の憤激が高まり、社会主義革命が起こると予想しました。晩年になると、生産能力至上主義が環境破壊をもたらすと考えるようになります。自然さえ単なる投資対象と看做す資本主義の傲慢さは地球環境に深刻なダメージを与え、修復不能な状況を招来しています。資本主義が人間のみならず自然からも搾取することにマルクスは気づいていたのです。『資本論』にある「G-W-G'」は、金(Gelt)→商品(Ware)→金2(余剰価値)を意味しますので、資本主義=際限のない価値増殖運動ということになります。経済のグローバル化と相俟って、資本主義が必然的に崩壊するとしたマルクスの主張は再び輝きを取り戻しています。資本主義は未だ崩壊していないどころか、社会主義大国・ソ連は崩壊し、マルクスがプロレタリア革命の最終ステージ「共産主義体制」を標榜する国家は数えるほどしかありません。マルクスの予想は外れたかに見えますが、地球は確実に自壊に向かっています。地球にプランBはありません。
そんな待ったなしの状況下、私たちは資本主義にどっぷり浸かり、無意識のうちに暴走を止めない資本主義と結託しています。資本主義の持続可能性に大いなる疑問符を投げかけた『人新世の「資本論」』は、トマ・ピケティの著作と並んで、まさに「21世紀の資本論」です。
著者が言うように「3.5%」の人々が非暴力的方法で立ち上がれば、社会は大きく変わる可能性があります。日本国憲法第29条は私有財産制度を保障しています。ですから、社会の富をコモンとする考え方や具体的処方箋を欠く脱成長経済論に俄かに与することは出来ませんが、資本主義が生み出した負荷や矛盾が地球を滅ぼすという危機感に基づいて、ひとりひとりが行動変容をせまられていると考えるべきでしょう。先ずは、地球環境に負荷を及ぼす消費行動を自制することから始めたいと思っています。