アフターコロナと吉本隆明の《共同幻想論》

今月の「100分de名著」は吉本隆明の『共同幻想論』(1968年)を取り上げています。戦後最大の思想家と言われる吉本隆明の難解極まる代表作を再読する機会を番組が与えてくれたことに感謝しています。昨年、NHK出版から刊行された『考える教室 大人のため哲学入門』(若松英輔著)もプラトン、ルネ・デカルト、ハンナ・アレントに続けて、最終章で『共同幻想論』を論じています。『共同幻想論』は広義の思想書というより丹念に論証を重ねた哲学書と考えた方がいいのかも知れません。「ネット社会」の誕生が、再び「共同幻想論」を覚醒させたことは間違いないでしょう。

1924(大正13)年生まれの吉本隆明は、1944(昭和19)年に勤労動員され富山・魚津で終戦を迎えます。同世代の多くの若者が戦争で命を落としたことに加え、敗戦を機に帝国主義から民主主義へと180度価値観が切り替わったことに大きな衝撃を受けた吉本は、「国家」について徹底的に思索します。その結果、たどり着いたのが〈国家は共同の幻想としてこの社会の上に聳えている〉という考え方です。

「国家」の実在性を疑うだけではなく、風俗、宗教、法さえもが幻想だというのです。『共同幻想論』が刊行された1968年といえば日米安保条約改定が迫り、日本各地で学園紛争が彭湃として沸き起こった時期に当たります。共同体にあって、人は無意識のうちにさまざまな制度や慣習、あるいは観念に従属させられています。先ずそれらを疑ってかかることが、「国家」という衣も剥ぎ取る第一歩というわけです。

共同幻想論」刊行から50年近くが経ち、熱い政治の季節はとうに過去のものになってしまいました。しかし、その間に、「ネット社会」が誕生し「国家」はますます吉本のいう共同幻想の様相を呈し、益々実体が希薄化してきました。男女や親兄弟の間で生じる血縁を軸にした「対幻想」が、やがて人間集団のなかで「共同幻想」に変わると、忽ち、有無を言わせぬ同調圧力が生じます。今や、「国家」というよりも、易々と国境を飛び越える「ネット社会」が地球規模の幻想と化しています。神話にまで遡り、「国家」の起源は、非合理的なるもの、或いは嫉妬や嫌悪(又は愛好)渦巻く感情的なものに由来すると吉本は主張します。「ネット社会」においては、そうした情緒的感情的なるものが信じがたいレベルにまで増幅されているように感じます。そして、オンの世界の出現によって、共同体の紐帯はすべからく崩壊の危機に瀕しています。「個人幻想」も「対幻想」も圧倒的な「共同幻想」の前に恰も風塵の如しです。

新型コロナウイルス禍の下、「ネット社会」から途切れなく吐き出される厖大な情報に人々は翻弄され、ストレスを溜めこみ恐怖や不安に怯えています。今日、吉本が最重要視した「沈黙の有意味性」は、『共同幻想論』執筆当時より遥かに輝きを増しているように見えます。「共同幻想」という魔物に呑み込まれてしまわないように、徹底的に自分の頭で考え日々の生活のペースを守り抜くことが、アフターコロナを生き延びる唯一の術だとつくづく思うのです。