原題は”The Climb”、日本版副題はエヴェレスト大量遭難の真実。1996年5月10日、8名の登山家の命を奪ったエヴェレスト史上最悪の遭難事故の真相に迫ったノンフィクションです。20年以上前に読んだ記憶はあるのですが、残念ながら、今や本書は絶版。映画「エヴェレスト3D」(2015年制作)に触発されて、図書館で借りて再読することに。作者は、マウンテン・マッドネス隊(隊長:スコット・フィッシャー)のチーフ・ガイドを務めたアナトリ・ブクレーエフ。当時、彼は38歳。カザフスタン出身のロシア人で、8000m峰14座のうち7座に登頂した実績もある高所登山のエキスパートです。特筆すべきは、そうした登頂が冬季に1日で、しかも無酸素で行われたことです。
本書は、同時期にアドベンチャー・コンサルタンツ隊の顧客として、エヴェレスト登頂を果たしたジャーナリスト、ジョン・クラカワーの著書『空へ』(“Into Thin Air”)(文藝春秋社刊)に対する反論・反駁も意図し寄稿・刊行されたものです。本書は共同執筆のため、地の文とブクレーエフの独白が交錯し、『空へ』比べると些か読みにくいのが欠点ですが....
ジョン・クラカワーは、『空へ』のなかで、客を待たずに一目散に下山したブクレーエフの行動を「ガイドとしてきわめて問題のある行為だ」と非難し、「客たちと一緒に下山していればその後の大量遭難を未然に防げたかも知れない」とさえ仄めかします。十分な反論の機会を与えられなかったブクレーエフにしてみれば、本書執筆は道理です。
顧客の安全をないがしろにしたブクレーエフへの非難が遭難事故の直後から昂まる一方、取材を重ねたとはいえ、クラカワーが実際に目にした光景は、ある意味、ほんの一部でしかありません。両書を読み比べてこそ、エヴェレストの悲劇に迫れるように思います。
至れり尽くせりの商業登山の綻びが幾重にも生じて、それが悲劇に繋がったことは間違いありません。酸素ボンベや高所テントなど必要欠くべからざる装備さえ、満足に調達できていなかったことは驚きです。最大のリスク要因は、顧客の熟練度不足でした。米・営業遠征隊ガイドのトッドは「だめな人間を入れてしまうことで、自分の生命も他のメンバーの命も危険にさらされる。メンバーの選択は正しくやらなければならない。完璧な選択をしなければならない。間違いは許されない」と主張します。ブクレーエフが隊列をなして登頂をめざす複数の商業登山隊を「おもちゃの兵隊」に例えたのは、言い得て妙です。ブクレーエフは高度順化の過程で、天候急変へ懸念、隊長フィッシャーの肉体的・精神的疲労、クライミング・シェルパの脱落、商売仇ロブ・ホール隊との協力など、様々な不安を肌で感じるようになります。熟達の登山家のこうした胸騒ぎは、不幸にも的中してしまいました。
つまるところ、世界最高峰をめざす苛酷な環境下、ガイドに期待された役割はどこまでも曖昧でガイド各自で認識が異なったままでした。頂上に1時間留まったというブクレーエフはそれが体力の限界で、第4キャンプまで戻ってこそ再び顧客を救出しに向かえるのだと主張します。クラカワーはそれは無責任だと言い放ちます。結果、休息と共に水分を補給したブクレーエフは、超人的な働きで3人のクライマーを救出します。下のチャートはブクレーエフの行程高度表です。
時速100kmに達する凄まじい風が山頂を襲った極限状態のなか、ブクレーエフのとった行動は、自らの命を守る行為であって何ら非難に値しません。高所最大の敵は本人が指摘するとおり強風なのですから。「私はスーパーマンではない」という正直な吐露の背後に、ブクレーエフの冷静な判断がありました。ガイド報酬2万5千$で二次遭難を覚悟せよと、どの口が言えるのでしょうか。スコット・フィッシャー隊長とロブ・ホール隊長は、顧客救助のため献身的な努力の果てに命を失いました。それは、危機的状況に陥る前に、撤退も含めた最善の措置を取れなかった報いでもあります。14:00を過ぎたら下山するという規律を隊長自ら反故にしたわけですから、顧客を危険に晒したのはベテランガイドに他なりません。
本書から学ぶべき教訓とは、マイルールは守れということ。自然を相手にする登山は危険と隣り合わせ、命は自分で守るしかありません。残念なことに、ブクレーエフは本書刊行直後に、アンナブルナで雪崩に遭い落命したそうです。
- 作者: アナトリブクレーエフ,G.ウェストンデウォルト,Anatoli Boukreev,G.Weston DeWalt,鈴木主税
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1998/09
- メディア: 単行本
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