『ミニヤコンカ 奇跡の生還』の教訓

来月下旬の一泊二日燧ケ岳登山を控え、山の本をあれこれ読み漁っています。たまたま、古書店で目に留まった『ミニヤコンカ 奇跡の生還』(yama-kei classics版、ヤマケイ文庫、底本は1983年1月刊行)を購読し、かくも壮絶な生還を果たした日本人アルピニストがいたことを再認識したところです。
著者の松田宏也さんは、1982年5月、所属する市川山岳会のミニヤコンカ(中国四川省:標高7556m)遠征に参加、ザイルパートナーの菅原信さんと共に頂上アタックする直前で2日間ビバークを余儀なくされます。遠征隊長はC1(4100m)ですでに下山、頂上攻略は、残る隊員6名のなかから体力・技量に優れるこのふたりに委ねられます。ところが、山頂まであと50mと迫りながら、敢えなく登頂は頓挫してしまいす。松田さんは26歳、菅原さんはひとつ年下、血気盛んな年齢のアルピニストでした。過酷な冬期訓練を重ねて臨んだこの海外遠征は、次に続くであろうヒマラヤ8000m峰への試金石でもあり、悪条件のさなか下山を決意するまで、ふたりの間で幾度も葛藤がありました。
最大の過ちは、晴天を待ってアタック時刻を午前9時近くまで先延ばしたことでした。<アタックはできるだけ早い時間に出発するという鉄則>を曲げた上に、行動食はわずか1日分、シュラフもC5に残してきてしまったことが状況をさらに悪化させてしまいました。著者はこの体験を魔の山をさまようと形容しています。その前年、スイス隊のひとりが消息を絶ち、北海道山岳連盟の8名がザイルで繋がれたまま滑落死しています。容易に山頂を明け渡さないミニヤコンカはまさに魔の山だったのです。
やがて、松田さんは下山途中で後続のパートナーの菅原さんと離れ離れとなり、死地を彷徨いながら標高2900mの地点(CBC)において瀕死の状態で発見されます。なんと下山開始から19日目のことでした。命と引き換えに、松田さんは、両足を踝の上70センチから切断、凍傷で真っ黒になった両手の指もすべて切断することになってしまいます。その後、菅原さんは遺体で発見され、遺体捜索にあたった仲間の中谷さんも高山病で落命。帰国後、入院中に松田さんはそのことを知らされます。普通の人ならサバイバーズギルトに苛まれ、容易に立ち直れないところです。ところが、彼は、生還後半年そこそこで本書を世に問います。山で人生を学んだ者の宿命だと言うのです。松田さんが生き延びられたのは大自然への畏敬の念と深い感謝があったからではないでしょうか。過ちを乗り越えて今も登山に挑む松田さんのエネルギーに心底感動します。松田さんと同様にミニヤコンカで生死の縁を彷徨った阿部幹雄さんの解説の言葉、「山は実力のない者に頂を踏ませないし、過ちを犯す者は遭難する」は心につき刺さりました。大自然と向き合うときの心構えを本書から教わった思いです。


ミニヤコンカ奇跡の生還 (ヤマケイ文庫)

ミニヤコンカ奇跡の生還 (ヤマケイ文庫)