7月29日、NHKの「歴史ヒストリア」(「もうひとつの終戦〜日本を愛した外交官グルーの闘い〜」)が取り上げたジョセフ・グルー大使の戦中・戦後の奮戦ぶりに改めて感銘を覚えました。この手のドキュメンタリー番組を作らせたら、NHKの右にでる者はいませんね。
グルー大使は、昭和7年6月に赴任し昭和17年に野村吉三郎駐米大使らと戦事交換船で合衆国に帰国するまでの10年間、駐日大使を務め、日米間の緊張緩和に尽力したことで知られています。
彼の赴任直前に五・一五事件が、4年後には二・二六事件が勃発します。翌昭和12年に日中戦争ですから、時代は太平洋戦争へとまっしぐらです。グルー大使は二・二六事件が起こる前夜、事件で落命した内大臣斎藤実と瀕死の重傷を負った侍従長鈴木貫太郎の両氏を招待して大使公邸で映画鑑賞会を催しています。滞米経験があり親英米派だった斎藤内大臣や高橋蔵相が殺害されて、ジョセフ大使はさぞや心を痛めたことでしょう。
そして、開戦の通告を受けるときにはすでにアメリカ大使館の電話線が断ち切られていました。敵国の大使という立場に置かれ、大使はさぞ辛い思いをされたに違いありません。外交官特権で身を守られているとはいえ、日本政府は短期間大使を抑留したといいますから容赦ありません。
来日して初めて謁見した天皇陛下のきさくなお人柄、愛犬Samboを皇居のお濠から救ってくれた通りすがりの青年などなど、愛すべき日本の良き思い出を抱えて大使夫妻は日本を去ることになります。
帰国後、メディアが昭和天皇をヒットラーやムッソリーニと同じような独裁者として扱うことに慷慨し、グルーは反日感情極まる母国で天皇を平和主義者として擁護しようとします。結果、彼は閑職に追いやられてしまいます。ところが、太平洋戦争末期、グルーは国務次官に起用され、外交の表舞台に再び登場します。
ポツダム宣言の草稿を手掛けたのはグルーだったそうです。早くから終戦工作のカギを握るのは昭和天皇だと気付いていた彼は、天皇の地位の保全を宣言に盛り込みます。ところが、対日強硬派のバーンズ国務長官の判断でかかる記述は削除され、ポツダム宣言は昭和20年7月26日に無条件降伏を求める内容になってしまいました。
その結果、国体が護持されるかどうかの宣言解釈を巡って、政府内では喧々諤々の議論が重ねられることになってしまいます。その間に、無情にも原爆が広島と長崎に投下され、ソ連が参戦してきます。終戦直前の僅か半月で失われた命のことを考えると、グルーの奮闘が実を結んでいたらと思わずにはいられません。
終戦と共に公職を辞したグルーは、マッカーサから顧問就任を求められますが固辞したのだそうです。占領者づらをして日本の友人らと再会したくはないというのが理由でした。こんな立派な駐日大使がいたことを忘れてはなりませんね。
- 作者: ジョセフ・C.グルー,Joseph Clark Grew,石川欣一
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