東日本大震災から9年~岩手県大槌町役場の悲劇~

東日本大震災から9年目を迎えました。歳月の経過とともに風化していく大震災の記憶。毎年3月11日が近づくと、<あのとき、何をしていたのだろうか?>と自問自答してしまいます。大震災の記憶は年を重ねるにつれおぼろげで断片的なものになりつつあります。ただ、最初の強烈な揺れ、それから数ヶ月幾度も繰り返された大小の余震、例えようもない不安感・・・そんな記憶だけは我が身の深奥に刻まれている気がします。

先々週から2週連続してNHKスペシャルが掘り下げた東日本大震災番組を視聴しました。3月8日放映のNHKスペシャル「40人の死は問いかける~大槌町”役場被災”の真実~」は、最初の揺れから大津波が役場庁舎を襲うまでの35分間、役場職員それぞれがどんな考えからどう行動したかを検証する内容でした。

大槌町長を含む40人の役場職員は、防災拠点だった岩手県大槌町庁舎で津波の犠牲になりました。庁舎が防災拠点として機能し得ないと判断された場合は、庁舎から徒歩圏内の高台にある町の施設がその役割を果たすことになっていました。

多数の同僚が勤務中に命を落としただけに、生き残った役場職員の口は重たく悲劇を検証するためのヒアリングには長い歳月が必要でした。役場職員の遺族からも犠牲者がどんな最期を迎えたのを知りたいという声が寄せられたのでしょう。

幼少時に津波を経験した女性職員は、尋常でない揺れから予想される津波が3mで収まるはずはないと考え、高台に避難して難を逃れました。一方で、目の前に大津波が迫るまで気づかず、屋上へ逃げ遅れ落命した職員が多数いました。木造庁舎にいた職員はひとたまりもありませんでした。もし、老朽化した庁舎が地震で半壊でもしていたら、職員は躊躇なく高台に避難したことでしょう。消防署が拡声器で避難を呼び掛けるなか、職員の多くが現場を離れることを躊躇いました。職場放棄に当たると考えた職員もいたことでしょう。町長も含む幹部職員の誰かが、大声で<高台へ逃げろ>という指示していたら、大槌町役場の悲劇は起こらなかったに違いありません。

それまで幾度も耳にした気象庁津波予報に反して、実際の津波は大したことなかったそうです。職員のなかに<今回も津波の高さが3m程度なら職場を守って、情報収集に努めるべきではないか>と考える人がいたとしても不思議ではありません。役場のリーダーの危機意識が薄く避難指示を出さなかったために、35分間という決して短くない時間、大勢の職員が為す術もなくその場に立ち尽くしていたことになります。その間、テレビは一斉に<ただちに命を守る行動をとって下さい>と呼びかけましたが、通信が途絶した環境でその声は届かなかったのでしょう。

情報収集さえ儘ならない状況下、ホワイトボードに震度さえ記入されませんでした。

亡くなった40人は職員の20%に相当する数だったため、大槌町の震災直後からの被災者支援に重大な支障をきたすことになりました。被災者支援の要となる市町村の職員が防災拠点で遭難することなどあってはならないことです。被災者支援に携わる公務員こそ、危機に直面した場合、先ず自らの命を優先して、避難することを躊躇うべきではない、それが悲劇が遺した最大の教訓でした。

旧庁舎をめぐって、保存VS解体で対立が生じ、住民訴訟にまで発展。遺族が求めた解体工事差止請求を裁判所は退け、2020年3月に旧庁舎の解体工事は終了しています。当事者ではありませんから、おこがましい限りですが、旧庁舎は何らかの形で保存し、後世に伝えていくべきではなかったかと思います。