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インパール作戦の戦場は想像を絶する要害だった!

終戦記念日に放映されたNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール作戦」を観て、しばらく茫然自失状態に陥りました。8月15日から10日余り経って少し気持ちの整理がついたので、番組の感想も交えて史上最悪の陸戦と呼ばれるインパール作戦について触れてておきたいと思います。


インパール作戦といっても、平成生まれの若い世代はおろか戦後生まれの40代50代でも作戦内容を知悉している人は少ないのではないでしょうか。インパール作戦とは、敗色も濃厚となった1944(昭和19)年5月から7月にかけてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。ビルマ(現ミャンマー)から近いインパールはインド駐留英軍の主要拠点でした。

インパール作戦において、補給を絶たれ餓死したり病死したりした兵士は凡そ3万人、作戦中止・撤退が決まってからの戦病死者の数が勝るという凄惨な結末を招いたことを忘れてはなりません。夥しい数の死体が重なり合うように道を塞いだことから退却路は「白骨街道」と呼ばれました。生き残った元兵士たちが口を揃えてこう語ったと伝えられています。

インパール作戦での日本軍兵士の第一の敵は牟田口第十五軍司令官、第二は雨季とマラリアの蚊、第三は飢餓、そして四番目が英印度軍だった>

そんな想像を絶する戦場の実際をこれまで我々は目にする機会はありませんでした。戦後もインドと現ミャンマーの国境地帯は未踏の地であり続け、現地取材さえ許されなかったからです。今回のNHKスペシャルは、長年のNHK・両政府との交渉が結実し初めて実現した貴重な映像による記録なのです。終戦記念日前後に放映されるNHKスペシャルには毎年心を揺さぶられます。



今、テレビを通して見ても、戦場は過酷の一語に尽きます。牟田口15軍司令官麾下の三師団はそれぞれ異なったルートでインパールを目指します。行軍距離は最長470キロに及び、行く手をチンドウィン河が阻みます。整備された道など皆無で藪を突きながら前進するしかありません。おまけに、指揮官が兵站を軽視した結果、荷物運搬と食料に供する目的で帯同させた牛羊の半数は河で流されてしまいます。渡河したあと待ち受けていたのは峻険な山岳地帯、なんとか河を渡れた牛羊も険しい山道を克服できずに谷底へ転落し、大砲などは運搬のため分解して兵士たちが担いで移動する始末、体力の消耗は誰の目にも明らかです。「3週間でインパールを陥落できる」と豪語していた15軍司令官の目算は悉く外れ、前線の兵士は忽ち窮地に立たされます。一方、大戦緒戦で躓いた英印度軍は態勢を立て直し、航空機から落下傘で補給を継続し辛抱強く雨季を待ちます。日本軍の杜撰な作戦は敵に完全に見透かされていました。

太平洋戦争で日本が完膚なき敗北を喫したその縮図がインパール作戦に見てとれます。ときの総理大臣は東條英機、連戦連敗の戦況を少しでも改善したいと、精神論一辺倒の牟田口司令官の蛮勇にほだされ、根拠なきインド攻略作戦を支持します。牟田口の上長であるビルマ方面軍司令官河辺中将も牟田口と共に支那事変を招いた責任を感じつつ、失地回復の好機とインパール作戦を承認します。冷静な作戦判断よりも政治的情緒的判断が優先され、無謀な作戦が敢行されていきます。補給困難を指摘して作戦に断固反対の意思表明をした参謀長は直ちに更迭され、師団長三人も反対したため、牟田口はその配下の参謀に命令を下すわけです。もはや組織の体をなしていません。

こうなると前線の兵士を待ち受けるのは地獄しかありません。番組のなかで、牟田口軍司令官付きの齋藤少尉が残した克明な戦陣日誌が度々紹介されました。当時20代半ばの齋藤少尉も最後は前線に送られ、病気に罹り戦場で置き去りにされてしまいます。視聴者は皆、命を喪ったものと思ったはずです。ところが少尉は捕虜となって生き延びていました。96歳になった元少尉が車椅子姿で絞り出すように語った言葉こそ忘れられません。元少尉の指摘した不都合な真実は、平和ボケした我が国の国家指導者、官僚組織、そして大企業に今も巣食っているに違いない宿痾そのものなのです。

<悔しいけれど兵隊に対する考え(死骸を積み上げ陣地を拡大すること)はそんなもんです。(その内実を)知っちゃったら辛いです>

写真は8月靖国神社を参拝した際、遊就館の中庭で収めたものです。インパール作戦の舞台となった戦場には、今も収集されない兵士の遺骨や遺品が遺されたままなのです。