<史上最大の作戦>から80年~揺らぐ北大西洋同盟~

80年前の1944年6月6日零時15分、米英軍を主力とする連合軍の空挺部隊がドイツ占領下の北フランスに降下を開始。<史上最大の作戦>と呼ばれる「ノルマンディー上陸作戦」の火蓋が切られました。

史上最大の作戦>を知ったのは小学校3年生のときです、娯楽の少ない当時、学校図書館で借りて夢中になって読み漁っていたのが筑摩のノンフィクション叢書でした。確か黄色い箱に収まっていたはずです。ネット検索してみると、『世界ノンフィクション全集16』に、コーネリアス・ライアンの代表作「いちばん長い日(The Longest Day)」が所収されていました。たまたま自分の誕生日が6月6日なので、爾来、友だちに誕生日を聞かれる度に「D-Day」と答えることにしています。ミリオタにしか分からない符牒なので、相手は大抵きょとんとします。

空挺部隊を待ち受けていたのは猛烈な対空砲火。目標地点より遥か手前で兵士らは降下せざるを得ず、名将ロンメルの命で人工的に作られた沼で溺死する者もいたそうです。海路に控えていたのは5000隻の艦船。夜明けと共にオマハ・ビーチに向けて一斉艦砲射撃が始まります。事前の情報戦でパ・ド・カレーが上陸地点だと判断したドイツはまんまと欺かれた恰好です(「フォーティテュ―ド作戦」)。連合軍が投入した兵員は15万人超、物量において圧倒する連合軍が敵陣を突破するのは時間の問題でした。2日目には5カ所の海岸すべてを制圧し、桟橋を設けて艦船が接岸できる港を構築してしまいます。

連合軍の死者と負傷者は、それぞれ4500人と6000人。結果だけ聞けば連合軍の圧勝のように見えますが、オマハの砂浜は死屍累々で死傷率は90%超えだったのです。「ブラッディ・オマハ」と呼ばれる所以です。オマハビーチを防衛していたのは、比較的陣地構築の進んでいた第352師団。トーチカをはじめ重火器による反撃が可能な防禦壁を着々と築いて、連合軍を待ち構えていたのです。それだけに先陣を切った攻撃部隊の被害は甚大でした。重装備が海水を含み上陸しようとする兵士の足取りを鈍らせ、海岸からの銃火器攻撃に対してなす術なく、上陸を目前にしながら連合軍兵士は次々と倒れるしかなかったのです。

ノルマンディー上陸作戦を成功に導いたのは、後に第34代合衆国大統領となるアイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官です。アイゼンハワーはこの戦いに挑む将兵を「偉大なる十字軍」に譬え、ノルマンディー上陸作戦の成功が単なる勝利にとどまらず、人類にとって歴史的貢献に値するのだと麾下を鼓舞します。野中郁次郎氏は、著書『史上最大の決断』(ダイヤモンド社)のなかで、賢慮のリーダーシップを発揮したアイゼンハワーを激賞しています。

サリンジャーやカメラマンのロバートキャパもこの戦いに従軍しています。欧州をナチスから取り戻すために、大西洋を挟んだ米国市民が立ち上がり参戦したことに今更ながら魂を揺さぶられます。最近、朝日新聞でブレット・スティーブンスの「Dデー80周年に思う」と題するニューヨークタイムズのコラムを読みました。スティーブンス氏は第二次世界大戦に従軍した世代を「最も偉大な世代」と讃えつつ、今日、北大西洋同盟(NATO)の連帯が緩んでいることに深い憂慮を示しています。自国第一主義を唱えるトランプ前大統領は、欧州の人々が切実に耳を傾けるべき警告を伝える使者なのだと述べて、混迷を続けるEUに警鐘を鳴らします。GDP、軍事力、人口動態といった指標を見る限り、総合的な国力を維持する米国に対して、過去半世紀のおける英国も含めた欧州全体の地盤沈下は明らかだからです。

西側諸国における同盟と言う名の相互依存関係がそろそろ限界に来ているのです。集団的自衛権行使を認めるNATO然り、日米安全保障条約然りです。ウクライナ・ロシア戦争に収束の兆しは見えず、長期化する一方です。ウクライナへの西側諸国による支援は、武器弾薬の提供にとどまり、兵員の派遣を見送ったままです。西側各国は、例外なく、国防の在り方について待ったなしの再検討を迫られているのです。