東京裁判と「殉国七士廟」

春のお彼岸に義父母の墓参のために妻の故郷・愛知県・西尾市に立ち寄りました。その足でかねてから一度お詣りしたいと思っていた「殉国七士廟」を訪ねました。愛知県・三河湾を臨む三ヶ根山頂(321m)に、東京裁判極東国際軍事裁判)で絞首刑を言い渡された七名の合祀墓「殉国七士廟」があるからです。昭和23年(1948年)、A級戦犯が起訴されたのは4月29日、そして起訴されたA級戦犯28人のうち、7人が処刑されたのは昭和23(1948)年12月23日です。当時の昭和天皇の誕生日にA級戦犯の起訴がなされ、皇太子(現上皇陛下)の誕生日にあたる12月23日に処刑が行われたのです。戦後、国民がこぞって祝福すべき日に忌まわしい記憶を呼び起こすための意図的な仕掛けとしか思えません。

A級戦犯が将来英雄視されることのないよう極秘裡に処刑・火葬がなされたわけですから、遺骨が家族に渡ることを占領統治国・アメリカ合衆国が許すはずはありません。何としても遺族のために遺骨を取り戻したいと考えた三文字正平弁護士(小磯国昭元首相の弁護人)が火葬場となった横浜市久保山の興善寺住職の協力を得て、米兵監視の目を盗んで遺骨を奪取します。しかし、隠した場所に香を焚いたため、米兵に遺骨を発見され没収されてしまいます。それでも諦めきれないふたりは深夜に骨捨場に忍び込み、遺骨と遺灰を入手します。

七士とは縁もゆかりもない幡豆町(現・西尾市幡豆町)・三ヶ根山に「殉国七士廟」が設置されたのは、東京裁判弁護団のスポークスマン・林逸郎氏と懇ろになった地元県議の奔走の賜物だそうです。三ヶ根山スカイライン経由山頂に至ると「殉国七士廟」と記された重厚な門碑が迎え入れてくれます。揮毫したのはA級戦犯容疑で拘留され後に釈放された岸信介元首相です。墓碑が整ったのは昭和35年のことです。戦後15年目とはいえ、処刑された7人への世情は依然険しく、資金集めも苦労したのだそうです。合祀墓の手前に立派な「殉国七士廟由来」碑があって、三文字弁護士の直筆で建立の経緯が克明に記されています。死屍に鞭打つ戦勝国・米国の仕打ちに憤りを覚え、何としても遺族に報いたいという氏の率直な思いが伝わってきます。心根において共感できるものです。

生憎の雨で訪れる人は我が家以外皆無でしたが、お彼岸だったので、四隅に生花が供えてありました。刑場の露と消えた7人を殉国七士と讃えることに躊躇いこそありますが、戦後、若い世代が忌まわしい歴史と向き合い対話するためのモニュメントだと考えれば、十二分なレゾンデトールが認められるのではないでしょうか。

少し前、NHK映像の世紀バタフライエフェクト》で「映像記録 東京裁判」を視聴したばかりだったので、文官でありながら唯一処刑された広田弘毅には同情を禁じ得ません。判事の判断も拮抗し6-5の薄氷差で絞首刑が決まっています。一方、歴史探偵を標榜し昭和史の泰斗だった故・半藤一利さんは、加藤陽子との共著『昭和史裁判』のなかで、城山三郎の代表作のひとつ『落日燃ゆ』の広田像は実像から乖離し過ぎていると手厳しく批判しています。ウェッブ裁判長の絞首刑判決を聞くや、外交官だった広田は翻訳を待たずヘッドセットを外します。判事らに深々と頭を下げると、2階席で傍聴するお嬢さんを見上げ、目を細めて会釈し静かに退廷します。冒頭陳述で請われて「無実」と発言した以外、沈黙を貫いた広田弘毅は、一切の責任を引き受ける覚悟で2年6ヶ月に及んだ戦勝国の裁判に臨んだのでしょう。海軍出身の3人が絞首刑を免れ、文官の広田弘毅が絞首刑では明らかにバランスを失しています。

番組末尾で戯曲・東京裁判三部作を著した井上ひさし東京裁判を評した言葉<瑕こそ多いが、血と涙から生まれた歴史の宝石>が紹介されます。氏は勝者が敗者を裁く東京裁判には問題が多いと指摘しつつも、<歴史の宝石>だと結論づけます。では、「瑕」とは一体何か。本来、国民自らが厳しく問うて然るべき戦争責任から目を背け、東京裁判を無視したことだと井上ひさしは言います。「殉国七士廟」は、戦後、国民の大多数が目を背けてきた東京裁判に今一度立ち戻り考えるきっかけ与えてくれる記念碑なのです。