シネマレビュー:『スパイの妻〈劇場版〉』(2020年公開)|ストーリーは粗が目立つ

一昨年、黒沢清監督が第77回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞して話題になった『スパイの妻〈劇場版〉』がWOWOWで放映されたので、早速視聴しました。このところ業績がぱっとしないWOWOWではありますが、興行収入上位の話題作(特に洋画)をいち早く放映してくれるので、月間プログラムガイドを参考に話題作は見逃さないようにしています。

本作の舞台は神戸、太平洋戦争が始まる1年前の1940年からスタートします。主人公聡子(蒼井優)は、神戸で貿易商を営む福原優作(高橋一生)の妻で何不自由ない生活を送っています。序盤、そんな幸せな日常にひたひたと忍び寄る戦争の気配が巧みに描かれます。優作の友人にして英国人生糸商ドラモンドが憲兵らに連行されるシーンに始まり、聡子の幼馴染み泰司(東出昌大)が神戸憲兵分隊長として赴任の挨拶に優作を訪れるあたりで見る者はただならぬ空気を察知します。何気ない日常に忍び込もうとする異質な時代の空気感はやがて不快極まるものへと変容していきます。軍服がもたらす威圧感はその象徴です。

商用で満州に渡った優作は、731部隊(通称:石井部隊)が極秘裏に実施していた生体実験の惨状を目撃することになります。コスモポリタンを自認する優作は滞在期間を延長して証拠収集に努め、看護師だったという女性弘子を伴って帰国します。帰国した優作と甥文雄は一見して様子が異なり、聡子は夫の不貞を怪しみつつ詰問しますが、なかなか真相にたどりつけません。旅館に滞在中の文雄から預かった生体実験ノートを盗み見して、ようやく夫が殉じようとする大義を理解します。

優作は、国際政治の場で関東軍の非人道的行為を告発すべく文雄にノートの英訳を命じていたのです。聡子はあろうことかそのノートを持ち出して憲兵の泰司に密告してしまいます。文雄は逮捕され拷問で生爪を剥がされますが、優作は無関係だと言い張りスパイ容疑をひとりで被ります。憲兵隊に同行を求められた優作は嫌疑不十分で釈放され、聡子と共に米国亡命の準備に取り掛かります。嫌がる聡子を説得して、ふたりは別々に行動することに。聡子は貨物船で、優作は決定的な証拠(映像フィルム)を預けたドラモンドのいる上海経由でサンフランシスコをめざすことになります。ところが、聡子の密航は渡航寸前に憲兵隊の知るところとなり、結局聡子は身柄拘束され、やがて精神異常をきたしたと看做され療養施設に収容されてしまいます。すべて夫優作が仕組んだことでした。聡子は「お見事」と呟いてすべてを悟ります。精神に異常を来したと思われていた聡子は至ってまともで、狂ったふりをしながら療養施設で戦争終結を待っていたのです。インドから商船で渡米する途中、米潜水艦に撃沈され落命したと旧知の野崎医師(笹野高史)から聞かされますが、聡子は夫の生存を信じて戦後まもなく渡米します。

太平洋戦争中、日本軍が行った数々の残虐行為は極東国際軍事裁判で「人道に対する罪(crimes against humanity)」として厳しく糾弾されました。アメリカ軍捕虜に対して生体解剖を行った九州帝大医学部関係者は、横浜軍事法廷で裁かれ5名が絞首刑、立ち会った医師18人全員が有罪になっています。ところが、関東軍防疫給水部本部満州七三一部隊は秘匿名称)が行った生物兵器開発やそのための人体実験は極東国際軍事裁判では一切不問に付されました。関わった軍医の多くは戦後大学医学部や国立研究所に転じたと言われています。4次に亘って米国・細菌戦専門家による731部隊調査も行われていますが、生物戦研究情報入手と引き換えに米国が意図的に資料を明るみにだすのを控えたとも伝えられます。戦後75年の節目に、映画製作を通じて、関東軍満州で行った非人道的残虐行為に再びスポットライトを当てる作業はなかなか勇気のいることです。中国や韓国の反日ムードを煽る一方、右翼や保守派からは歴史的事実の誤認だと批判される可能性すらあるからです。

黒沢清監督の姿は、ある意味、「売国奴」と罵られ憲兵から糾弾された優作や文雄の姿と重なります。終戦直後から軍部の手によって大量の機密文書や証拠類が焼却されているので真相はどこまでいっても藪の中かも知れません。監督自ら語るようにサスペンスや夫婦のメロドラマとして観ることもできるのでしょう。しかし、731部隊の闇を暴くことが作品の背骨である以上、戦時下における一市民の反逆は緻密に構想され丁寧に描写されて然るべきでした。

最大の失策は、優作が関東軍による生体実験の現場を実際に見て国際政治の舞台で告発すると息巻くところ。軍の最高機密に属する生体実験の様子や死体の山を一市民が目撃することなどあろうはずもなく、国際的に告発するというのは著しくリアリティを欠く発言です。無駄にフィルムを使ったと思われる箇所は、満州から連れ帰った看護師弘子の殺人犯が旅館の亭主だった下り。最大の謎はいまだに腑に落ちない聡子の密告(ノートを憲兵に提出)。夫婦役の高橋一生さんと蒼井優さんの好演で救われたものの、脚本に粗が目立ったのが残念でなりません。