英国映画『ゴヤの名画と優しい泥棒』(2022年製作)は、1961年にロンドンのナショナル・ギャラリーで実際に起こった盗難事件に基づいて製作されたものです。盗難された肖像画《ウェリントン公爵》に因んで、映画の原タイトルは"The Duke"=公爵となっています。肖像画の作者は、スペイン国王に仕えた宮廷画家・フランシスコ・デ・ゴヤです。肖像画に描かれたウェリントン公爵はスペイン独立戦争で活躍した英国軍人で、ワーテルローの戦いにおいてナポレオン1世率いるフランス軍を破った英雄ですから、ナショナルギャラリーに展示されたばかりの肖像画《ウェリントン公爵》が盗難されたこの事件は、当時、世間の耳目を一気に集めたことでしょう。
4年後の1965年に犯人・ケンプトン・バントンが自首して、この盗難事件は決着し舞台は法廷へと移されます。元々、アメリカ人実業家の手に渡るはずであった《ウェリントン公爵》を、有名な肖像画の国外流出を阻止するためにナショナルギャラリーが買い戻しました。これが盗難事件のそもそもの発端です。14万ポンドという高額の対価を支払って買い戻したとメディアが大きく報じたため、バントン(ジム・ブロードベント)は生活苦に喘ぐ一市民として複雑な思いでこれを受け止めます。
バントンのアパートに運びこまれた《ウェリントン公爵》の肖像画をまじまじと見つめながら、ケンプトンは「大した絵じゃないな」と呟きます。盗難事件に発展した物語のすべてがこのひと言に凝縮されています。たった1枚の名画盗難事件をきっかけにバントン一家は思いも寄らない騒動に巻き込まれていきます。世間の常識に囚われないお喋りで夢想家のケンプトン・バントンに対して、一家を切り盛りするのはヘレン・ミレン演じる現実主義者・ドロシー・バントンです。
家政婦として働き詰めのドロシー役・ヘレン・ミレンで思い出したのは、2015年公開の映画『黄金のアデーレ 名画の帰還 ("Woman in Gold")』。グスタフ・クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I』の所有権をめぐって、オーストリア政府に対して訴訟提起したマリア・アルトマンを演じたのも彼女でした。決して信念を曲げない強かな女性を演じさせたら、ヘレン・ミレンの右に出る者はいません。
ケンプトン・バントンの饒舌は法廷さえ失笑の渦に巻き込み、有罪必至の状況下、百戦錬磨の弁護人もお手上げかに見えます。しかし、陪審員らは思いも寄らない評決を導き出します。ケンプトンが綴った戯曲に目もくれなったドロシーは、ケンプトンの逮捕をきっかけにその戯曲を読み始めます。英国を代表するふたりの名優がつかず離れずのどこにでもいそうな夫婦を好演。1枚の名画の盗難事件が紡ぎだしのは、紛れもない愛情あふれるバントンファミリーの物語です。