『孤高の人』加藤文太郎の生涯

最近、加藤文太郎の生涯を描いた伝記小説『孤高の人』(新田次郎著)を読み終えたところです。文庫二冊で千頁に及ぶ大著だけに、かなり読み応えがありました。兵庫県浜坂町に生まれた加藤文太郎は、大正12(1923)年ごろから山歩きを始めます。小説の冒頭、ナッパ服(黄土色の作業服)に下駄履きといういで立ちの文太郎は、神戸の後背地から下山したところで、職場(神港造船所)の技師で研修講師の外山三郎と出喰わします。この出会いが文太郎の数奇な運命の始まりでした。大学時代、山岳部に所属していた外山は、ほどなく文太郎の山登りの才覚に気づき、山登りの手ほどきをしながら会社の山岳会に誘います。ところが、元来シャイな性格の彼は誘いになかなか応じようとしません。

登山が貴族階級か大学登山部の独壇場だった大正以前のこと。昭和に入ると、文太郎のような社会人による登山が次第に一般化していきます。「時間と金いずれにも恵まれない文太郎の存在こそ価値がある」と地元山岳会会長に作者新田次郎は言わしめます。冬山に至ってはなおさらです。一介のサラリーマン登山家に過ぎない文太郎は、剱岳をめざす道中で6人のパーティと遭遇し、山小屋さえ追い出され、案内人を伴わない単独行の寄る辺なさを痛いほど味わいます。「冬山は金持ちだけものであろうか」と文太郎は思わず呟きます。よく言えばパーティ、しかし、冬山で出会ったパーティは功名心に駆られた排他的な登山家集団でした。こうした不幸な出会いは、却って、文太郎が「単独行」に前のめりになる契機を与えることになります。新田次郎は、加藤文太郎の生涯を描きながら、いわゆる「極地法」やパーティ登山と対峙する「アルパインスタイル」の長所や可能性を明確に意識していたように思います。新田次郎の山岳小説の最大の魅力は、こうした山岳史や時代背景に目配りしながら極上の人間ドラマを創りあげた点にあります。

高峰の冬季登山がまだ一般的ではなかった昭和初期に、創意工夫を重ねながら単独で北アルプスをはじめとする厳寒の山々を駆け抜けた加藤文太郎には、『単独行』という自著があります。ヤマケイ文庫の奥付を見ると文庫化されてからも八刷を重ねています。今や、登山グッズ店に足を運べば多種多様なクライミング・ギアが溢れかえっています。そんな時代にあってなお版を重ねる『単独行』には、アルピニストの原点ともいうべき虚飾のない姿が刻まれているからでしょう。文太郎は、結婚後して一年足らずで、旧知のザイルパートナーと挑んだ北鎌尾根で遭難死することになります。享年31歳でした。ヤマケイ文庫の解説によれば、『孤高の人』の加藤文太郎は不覊独立のイメージが強すぎて、やや美化されたきらいがあるのだそうです。実際は、人並みに山仲間と交流もあったようです。 近代登山の黎明期にあって、学歴のない一介の会社員に過ぎなかった文太郎が造船所の仕事に打ち込み技師に登りつめる一方で、独力で登山技術を習得し職業登山家を遥かに凌駕する実績を挙げたその生涯は、豊衣飽食の現代なればこそ、ひときわ輝いて見えるのです。

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)